今年(二〇〇六年)十月十二日付 「朝日新聞」の「声」欄に千葉県の男性が投書したものを読みました。概要は「大戦で父を失い、戦争なんて大嫌いだけれど、他国を攻める軍隊ではなく、外敵から自分の国を守る軍隊は必要だ。そういう意識は日本国民なら当然持つべきだ」というものです。改憲に賛成する意見の中で代表的なものの一つだと思います。また、この考え方に関連して、「国(家)あってこその国民なのだから、国の方針に反対するものは出て行けばいい」という言い方も最近あちこちで聞かれるようになりました。若い人達にも容易に受け入れられる考え方のようです。
 ところで、頭書の千葉県の男性と同じように私も大戦に関する思い出があります。

昭和二十年、満州国で

 それは、もう夢の中といってもいいような六十年程前の情景です。昭和二十年の夏か、初秋です。当時満州国といい、八月十五日を境に消滅したその国の首都、新京市のメインストリート(?)に三歳の私がただ一人立っており、目の前には木箱か何かを足にして戸板を置き、その上には山のように何か小粒の果実が積み上げられておりました。その通りには、終戦の目を境にどこからともなく繰り出してきた満州人(中国人)達がお祭り騒ぎのように連日溢れていたといいます。

迷子になり 露天商の家に三晩も泊まる

 私は外出した母親のあとを追って行って迷子になり、その雑踏のまっただ中にいたわけです。あとになって親から聞かされたところによると、現地の露天商のおじさん(中国人)が、前に立ってもの欲しそうに眺めている私に気づき、売り物の果実を二つ三つ私の手に握らせ、自分の傍に並んで坐らせてくれたのだとか。だれか迎えに来るだろうと待ったけれど、夕方になってしまい、しかたなく自分の家に連れ帰って、翌日も同じ場所で店を開いたけれどやはり将があかない。その人は独り身だったらしく、私をこのまま引き取って養子にでもと思いはじめた矢先、親達がうわさを聞いて迎えに来た次第だったのだそうです。私が泊めてもらったのは三晩ほどだったようですが、その家(というより小屋だったような気がします)でおじさんに抱かれて寝ながら聞いた(気がするのですが) 路面電車の音が今でも耳に残っており、それなのにその人の顔はすっかり忘れていて思い出せないのは不思議な感じがします。人は妙なことを覚えていて、肝心なことは忘れるもののようです。
 ともあれ、私がいなくなってから、親達は家の近くにある電柱などあちこちに張り紙をしてまわり、必死に私の手がかりを求めて走り回ったそうですが、あの混乱の中でよく見つかったものだというのが正直な感想だったようです。その露天商のおじさんの家の前で、迎えに来た父親に手渡された私が高々と差し上げられた時に見た情景(大ぜいの人がいて私を見て歓声をあげている)を覚えているというのはあとで見た夢だったのかもしれません。
なぜこんなことを書いたのかといいますと、当時の混乱した状況の下で、私のように幸運にも無事に両親のもとに連れ戻された「迷子」はけして多くはなかったからです。

終戦の一週間前にソ連軍が侵攻してきて

 ご存じの通り、ソ連軍の満州侵攻は終戦のわずか一週間ほど前の ことです。国境付近の守備隊の中には、戦車とともに進軍してくるソ連軍に激しく抵抗して戦死するものも多数あったと記録されていますが、日本陸軍最強といわれた関東軍もその頃には主力部隊は南方に移動し、後に「張り子の虎」とまで酷評されたように、広大な地に散らばる開拓民や居留民を守り、安全に避難させる力は全くなかったのです。

将官たちはいち早く退却

それどころか、ソ連侵攻四日目の八月十二日には関東軍総司令官は敵軍が迫りくる首都新京を捨てて朝鮮国境に近い通化という町に転進(つまり退却です)してしまいました。総司令官をはじめとして、多くの将官達が小型飛行機や特別列車で戦線からはるか遠くの通化に向かっていち早く、混乱する新京を離れて行ったそうです。関東軍の防衛線は一気に朝鮮国境付近にまで後退したわけです。
 今や、丸裸か同然の人々がソ連の進軍の下で逃げまどい、新京や大連といった大都市までたどりつけば日本政府の保護を受けられるだろうというあてもない願いのもとで、広大な原野を歩き続けるしかなかったのです。親を捨て、子どもを殺し、あるいは現地中国人に売り、自分自身もやがてはソ連軍の掃討作戦や現地住民の報復によって死んで行った話はこの時各地で起こっていたわけです。
 国民がどうしてもそばにいて守ってほしいぎりぎりのその時、軍隊は、また国家はどこにいたのでしょう。何をしていたのでしょう

「私たちは祖国に二度捨てられました」

その混乱の中でかろうじて生き残り、あるいは中国人に売られたりした、いわゆる中国残留孤児達が昭和五十六年三月を第一次として以後毎年のように肉親捜しのために来日していますが、近年はほとんど成果が見られなくなっています。何の手がかりも得られず、空しく中国に帰らねばならなかった孤児の一人が泣きながら言った「私達は祖国に二度捨てられました」という言葉を、私はどうしても忘れることはできません。

軍隊は自国の国民を殺すことさえもある

少なくとも私には、前述の千葉県の男性のように「外敵が攻めてき たら、国民を守り、その家族を守るのは軍隊である」ということを容易に信じることはできません。むしろ軍隊というものは、いざという時に自国の国民さえ殺すことがあるのだと、前の大戦の時に私たちは経験したのではなかったでしょうか。
 六十年前、日本国憲法が発布された時、今までと異なり国民白身がこの国の主権者となりました。それは「国家あっての国民」ではなく、「国民あっての国家」となったことを意味しています。これはほんとうに大事なことだと思います。
 なぜかといいますと、この時はじめて日本の国民が日本の国に対して「軍隊を持ってはいけない。どんな場合にも戦争してはいけない」と命令できたのですから。国はこの命令にそむいてはならないはずです。
 私にとって、憲法九条とはほんとうならば私と同じように無事に帰国して、戦後の平穏な生活をともにできたはずの子ども達が、今も異国の暗い土の下で「永遠の仮寝」をしていることへの、国としての反省と謝罪の原点であるべきだと思べきだと思っています。