私は昭和十五年五月六日生れなので、今年六十七歳です。特別な体験ではありませんが、五歳の終戦までの覚えていることを書いてみます。
父は昭和二十年一月に出征 家は母と三人の子供だけに
父の兄(伯父)二人は陸軍と海軍の将校として出征していました。昭和二十年に入ってから片目の見えない父に赤紙が来たのは三十二歳の時。昭和二十年の一月頃だったか、風が冷たく寒い日、日の丸の小旗で大勢の人に見送られ、原ノ町駅の貨物列車専用線から出征した。
父の居ない家族は、母と八歳の長男を頭に、五歳の私と弟の三人の子供だけだ。庭にはベニヤ板に土をかけた名ばかりの防空壕があった。
兵隊さんを慰問したり
終戦の昭和二十年、日毎に増える空襲警報のサイレンの中、現在の原町第一小学校には陸軍の高射砲が設置され兵隊が駐屯していた。我々数人で胡瓜と味噌等を持って慰問もした。
実家の印刷屋(荒現代社)で団扇を作って居たが、表面に貼る印刷物は全てイラストで描かれたカラーの印刷の戦争画ばかり、それも全てが日本国軍の勝利と留守を守る婦人部隊の絵ばかりであった。
昭和二十年二月十六日の原町空襲、八月九日と翌八月十日の空襲で多数の犠牲者が出た事や、原町から召集されて戦没した兵士は千四十柱にのぼった事など、幼児の私には知るよしも無かったが、子供心には原町飛行場、原町紡識工場、帝国金属原町工場等があったので空襲が激しくなるのではと恐ろしさを感じてはいた。
今も忘れられない 空襲のサイレンや飛行機の爆音
四月に入ると多くなったウ~ウ~と敵機襲来の空襲警報のサイレンが響く中、妹が誕生した。空襲警報のサイレンが鳴る度に、近所のおじさんが防空壕まで妹を連れて行ってくれた。爆音が響く、遙かな空には煙りを引きながら飛行する戦闘機。遠くからドカーン・ドカーンと聞こえてくるのは艦砲射撃の音だろうと大人たちは言っていた。
空襲警報のサイレンの音と飛行機の爆音の恐怖は、七十歳を前にした今ても忘れる事が出来ない。足が震え、心臓の鼓動が更に高くなり、何をどうしてよいのか分からない日々が続いたあの頃。
高平村の親戚の家に疎開 兄と別れて涙が出た
五月の末頃か、大町の家から隣村の高平村に疎開する事となった。母と私、弟、生まれてまだ二ヵ月の妹の三人は、親戚の家に行くことになった。八歳の兄は一人で高平村金沢の祖母の実家へ行く事になり、高平の踏切で別れた。砂利と線路の上をひたすら高平のトンネルの方に歩くが、寂しくて自然に涙が出た。
疎開先は一面梨畑で、畑の一角にあった納屋を片付けて頂き、住み込んだ。何時まで続くのか分からない中、不安と楽しみが同居していた。「楽しみ」、それは食べる物があったからである。
終戦間近の七月末頃か八月か、やけに梨畑の上空を飛行機が爆音を響かせ北へ向かって行った。原町を空襲し仙台に空襲に向かったのだろう。仙台の北の空がオレンジ色に見えたという。
天皇の玉音放送は覚えている
それからどの位経ったのか、当日の天侯は曇り雨だったという。午後だったか、役場の職員か地元の人か、「明日の正午、重大な発表があるのでラジオを聴く様に」と大声で叫びながら歩いて行った。その日は八月十四日(火曜日)だった。
翌八月十五日(水曜日)正午、当日は晴れだった。テレビでよく見る光景である。ラジオの前に全員が集合。ピーピー・ガーガーの雑音でなかなか聞き取りにくい。ラジオを叩くと少し雑音が止まる。初めて開くあの天皇陛下の玉音放送である。無条件降伏の音声であった。周りに居た大人達は何かを叫んでいたが私には分からなかった。ただ日本は戦争に負けたのだと。その夜、初めてゆっくり白いご飯をご馳走になった。美味しかった。天皇陛下の玉音放送は覚えているが、『九条ブログはらまち』三八号に掲載されたような凄まじい原町空襲のことは記憶にない。
疎開から家に戻ってみると近くには爆弾の大きな穴が
短い三ヵ月の疎開の体験から我が家に全員が辿り着くものの、家の中は障子が外れ家具が横になっている。至近距離に落ちた爆弾の痕と思われる大きな穴があった。家の破壊は爆風によってだろう。もしそのまま住んで居たらと思うと、恐怖で身体の震えが止まらなかった。二十年秋には父が復員、家族全員がやっと揃った。
飛行場跡は子供たちの遊び場に
戦後、雲雀ヶ原飛行場跡は我々子供達の楽しい発掘場所の遊び場ともなった。薬きょうやテンガイとよばれた飛行機の部品、その他の戦争兵器の残骸があったからだ。敗戦直後の何もない時代の、格好なおもちゃを提供してくれる場だったのである
敗戦国日本の歴史を忘れず戦争放棄の憲法を順守しよう
現在、太平洋戦争の記録を見るに付け読むに付け、あの悲惨な戦争、テロや人種同士の戦いが、今尚世界各地で行われているのが残念でならない。戦争を知らない若者達に、敗戦国日本の歴史を忘れず、戦争放棄の憲法を順守して平和な地球を、世界中の人類が平和に暮らせる日が本当に来る事を?。
それは、政治家より国民が選択すべき事なのだろう。戦争の悲惨さと、福祉国家だと言われている現在何処が違うのか、改めて考える時期だと思う。
最後に、昭和二十年四月に誕生した妹は六十年後の九月にこの世を去った。