子どものころ戦争があったというと、空襲のことや疎開の思い出話かと思われるかも知れません。でも、阿武隈山地の村で育ったぼくらには、そういう体験はありませんでした。それでも戦争の影は、そんなところにも及んでいました

国民学校の目的は

 太平洋戦争が始まる一九四一(昭和一六)年四月から小学校は国民学校に改められました。ぼくが四年生のときです。その目的は、天皇陛下のために命を捧げる臣民(国民)をつくることでした。それを説明するのに適当な資料があります。この九条の会のニュース三十二号に、「昭和十八年度伊達郡霊山第一国民学校の通信箋つうしんせん」のコピーが載っていましたが、その「家庭の皆様へ」という言葉です。改めて、その一部を紹介します。  

○私共の体はかしこくも陛下の体です。
 土地も金も私の物ではない。
 御用となればすべてをささぐべきです。
 無論、子供もわが子ではありません。
 立派に仕上げて、皆お国にささげませう。
 学校はそのつもりで育てます。きびしく育てます。
(引用:昭和十八年度福島県伊達郡霊山第一国民学校「通信箋つうしんせん」の言葉より)
 これは、国民学校令第一条の目的に従って、日本中の学校がすすめた教育でした。ぼくは敗戦までの五年間、こんな教育を受けてきた国民学校の最後の卒業生です。

県の役人がやってきて「何のために行進するのか!」

 国が示した教育目的をどのように具体化し実践しているか視察するため、県視学けんしがくという役人が学校を巡ってきました。ぼくらの学校では一か月も前から、その日のために行進の訓練を繰り返していました。
 その当日、進軍ラッパの響きに合わせての行進を見終わった県視学けんしがくは、ぼくらに向かっていきなり、「君たちは、何のためにこのような行進をするのか」という質問を発しました。
 さあ、何て答えたらいいのだろう。そんなことを考えて行進したことなどありませんでした。(行進すれば~足が丈夫になる。足が丈夫になれば~丈夫な体になる。丈夫な体になれば~)

「天皇陛下のためです」

 その時、高等科一年の級長が指名されました。彼は元気に答えました。「天皇陛下のためです。」「そうだ。よろしい」と大声で言うなり、直立不動の姿勢になって、「君たちは日本のの少国民として、天皇陛下のために勉強したり行進したりしているのだ」と話し出しました。(そうか、何事も天皇陛下のためにと考えればいいのか)と、それ以来のぼくは、思うようになりました。

愛国少年の夢破れて

 高等科二年になって間もないころ、担任の教師は神風特攻隊の新聞記事を読み聞かせながら、「こうして出撃していった若い飛行兵たちは、見事、敵艦に体当たりして花と散った。皇国の臣民としての最高の生き方は、このように立派に死ぬことなのだ」と解説しました。そして話を続けました。「みんな目を閉じながら答えなさい。自分も特攻隊になろうと決心した者は、黙って手を挙げなさい」ぼくは、ためらうことなく手を挙げました。愛国少年ぶったぼくは、軍国主義の道をひた走り、少年飛行兵となって飛び立とうとしていました。

飛行兵志願に家族みんなが猛反対

 ところが、明日はその試験日だという前夜、ぼくの飛行兵志願には家族撮って反対でした。「腹が減っては戦はできぬ。何も戦場に行かなくともくわを握って食料増産することも国のためになることだぞ」「東京の焼け野原をこの目で見てきたが、もう日本は勝てる見込みはねえ。いま志願して兵隊になるなんて、飛んで火に入る夏の虫だわ」兄も姉も、ぼくの夢を覚まそうとしていました。

「人を殺すか殺されるかの戦争に志願は親として許せない」

 母は「人を殺すか殺される戦争に、志願していくなんて、親としてはどうしても許せない」と気も狂わんばかりの剣幕でした。ようやく「息子は熱を出して今日の試験に行けなくなった」と校長住宅に父が向かったのは、午前の零時を過ぎてからでした。
 ぼくが国のため少年飛行兵になろうとしたことが、どうして家族みんなから、こんなに反対され心配させることになるんだろう。こんなことになろうとは思ってもみませんでした。これで、これからの日本はどうなるんだろう。次々に口惜しさが胸に込み上げてきて眠れない一夜を過ごしました。ポツダム宣言を受諾したことを告げる玉音放送があったのは、その日から二日後のことでした。

「日本は神国 正義の戦争に必ず勝つ」などはみな偽りでした

 ぼくらは学校で「忠孝一致ちゅうこういっち」という言葉を教えられました。
君(天皇)に忠義を尽くすことと、親に孝行を尽くすことは一致するというのです。
 でも現実はそうではありませんでした。日本は神の国であり、日本人には大和魂があるから必ず勝つと信じこまされました。でも結果はそうなりませんでした。そしてこの戦争は、わが国の自衛のため、またアジア解放・独立のための正義の戦争と言われてきました。しかしそれは偽りであり、戦争をやるためのイデオロギーであり、スローガンに過ぎなかったこともわかってきました。

戦後、教科書に墨を塗る

 戦争も昭和二十年八月十五日、日本の敗戦で終わり、ぼくらの二学期は今まで使用していた教科書から「ウソ・誤り」や「戦争」のことを書いた個所に墨を塗って消すことから始まりました。
 その時の教科書は、恐らくどこにも残っていないと思っていましたら、たまたま岩手の、ある先生がお持ちの教科書を見せてもらったことがありました。五年生の国語の国語の教科書でしたが、数えると二〇の教材のうち一六が、一五三ページのうち一一八ページが黒く墨で消されてありました。ぼくらの使った教科書には、こんなに「ウソ」と「戦争」のことが盛り込まれていたのです。

戦後の日本は反省から出発

 あの戦争から六〇年以上も経てば、その風化は避けられません。でも風化させてはならないものがあると考えます。それは、戦後の日本は、あの戦争の反省から出発したということです。そして九条をもつ日本国憲法を制定しました。そのことは忘れないで欲しいことです。これからも語り継いでいかなければならないことだと思います。