真珠湾攻撃の軍神岩佐中佐と同じ群馬県前橋市に生まれて
私は群馬県の前橋市で生まれ育ちました。あえて出生地を強調するのは、私が戦争下で特別に衝撃を受けたことがあったからです。
一九四一年(昭和一六年)十二月八日太平洋戦争に突入し、真珠湾でアメリカ艦船を撃沈した日本の特殊潜航艇の艇長、岩佐直治中佐が前橋生まれで、軍の神様が前橋に突然現れたのです。街中が大さわざになりました。
毎日 軍神の歌を歌ったり
「軍神岩佐中佐の歌」が作られ、私も毎日のように思いを込めて唱いました。その一飾、
”香る勲の絶筆をさらに、この軍神の恩師市川直治先生が、高等小学校の私の担任教師で、名前も同じ直治でしたから大変なもので、小学生は集団で、岩佐家と墓参りに日参しました。でも、その時の両親の対応に違和感を感じましたが、私たち子ども心にはその気持ちを推測することは全くできませんでした。
手にせる父は微笑みて、
鳴呼軍神の母泣かず
軍神岩佐中佐こそ、その名冠たり永久に”
自分から陸軍少年飛行兵に志願
一方、学校では、軍神に続けとばかりの教育指導の連日で、私も陸軍少年航空兵に親の許可なく志願し、受験しましたが、体が小さかったからか、「乙合格・場合に依っては召集するかも知れないから待機するように」との結果で高等小学校を卒業したので、前橋郊外の軍需工場に就職し、鍛造課設計班に所属し、ここではじめて、アメリカのグラマン戦闘機の攻撃を受けました。工場の屋根が突き破られたり、退避した畑の中で危うく遣られるところでした。
私は戦時下で食事も満足に食べられないので大変ひもじい思いで、「空襲警報」になり全員が工場外に避難したところで、工場の食堂に侵入し、腹一パイ食べた時は、命は二の次でした。その後は食堂では見張り一人は残る様になりました。
前橋空襲 母と二人で炒豆とバケツを持って逃げる
いよいよ戦闘が激しくなり、一九四五年(昭和二〇年)八月五日、前橋が夜の九時五十分頃からB29爆撃機の来襲で、焼夷弾が投下され全市火の海。私は母と二人で大豆の煎った物の布袋一つとバケツ一つを持って逃げまどいました。バケツは火をかぶったら防火用水を汲んで体にかけるために、豆は当面の食糧、あとのことは何も考えられませんでした。この一晩で、前橋の八割が焼失しました。
アメリカ機からビラが撒かれ
人の噂では、この空襲に前もって、アメリカ機からビラが撒かれたとのこと。「前橋良いとこ糸の街、五日を過ぎれば灰の街」。このあと八月十日にはすぐ隣の伊勢崎市が空襲に遭い、「伊勢崎良いとこ機織の街、十日を過ぎれば灰の街」。その通りの結果となってしまいました。
もっと早く終戦を決断していればどれだけ多くの人が助かったか
これらの敵の攻撃に対して日本軍は何の対抗もなく、空襲が終わってから、探照灯で空を席らしただけ。これが戦争末期の状態で、八月十五日が戦争終結となり、あと十二、三日早く終戦を決断していれば、どれだけ多くの人達が助けられたか、残念の極みです。