秋田県角館に生まれて
私は昭和十七年、秋田県角館町雲沢村八割に生まれ、そこで戦争の悲惨さなどは全く分からないまま育ちました。その母の里は、電気も無く、菜種油の行灯の生活で、水は、山上から台所の下を流れて来るおいしい水を使っていました。食料は幸い、山の中なので何でもあり、けっこう豊かな自給自足の生活ができてました。人も大勢出入りしていましたので・・・
B29が爆弾を投下
しかしそんな中でも、B29という敵国の飛行機が飛ぶ音を聞くと、誰からともなく、「B29だあー」と叫びながら、何度も何度もながめていました。
そんなある日、隣村の女の人が夜、菜種の行灯をつけて腰巻きを取り替えようとしたところを、B29に見つかり、爆弾を落とされて恐ろしいことになったと大人の話で聞き、幼心に怖かったと記憶しております。
満州で衛生兵だった父のこと
、戦争の頃、私は二、三歳でしたから、母の弟を父親と思いこみ、自分の本当の父が戦争から
帰って来ても、「おじさん、おじさん」 と呼んでいました。
また私の父は筆まめで戦場地から、とにかくこまめに私宛に葉書を送ってくれていたようです。母は葉書が来るたびごとに、私に読んで開かせてくれていましたが、中身は戦場の激しさや私の安否を気遣うことだったように記憶しています。
戦地から絵本を送ってくれる
父は衛生兵でしたから、軍医に従って動いていたようです。多分中国の満州にいたらしいのですが、色々と物資やたくさんの絵本なども家に送ってくれていました。絵本の『安寿と厨子王』『うさぎとかめ』『さるかに合戦』『花咲じいさん』『饅頭姫』『鉢かつぎ姫』など送ってくれて、母はいつも読んで聞かせてくれました。その絵本の絵のなんと美しかったことか、よく覚えています。
でも、戦地から日本に物資や手紙を送るには、管理所管で検閲を受けて通過しないと日本には届かなかったそうです。戦場に少しでも不利なことが書いてあると抹消されると聞かされていました。軍隊の中で「戦争がいやだ」と言うと味方から殺される、と父が話していたことも思い出されます。
アメリカ機からビラが撒かれ
人の噂では、この空襲に前もって、アメリカ機からビラが撒かれたとのこと。「前橋良いとこ糸の街、五日を過ぎれば灰の街」。このあと八月十日にはすぐ隣の伊勢崎市が空襲に遭い、「伊勢崎良いとこ機織の街、十日を過ぎれば灰の街」。その通りの結果となってしまいました。
父が乗った汽車を見にいくが
父が戦場から一時帰国で、「どこそこを汽車で通る」と連絡があり、母は必死の思いで私を連れてその日の時刻に行ってみると、汽車はすでに通ってしまった後で、何回か母はそんな目に会ったようです。
また、父の無事を願って「千人針」を送るなど、並々ならぬ祈りがあったようです。そのお陰か、終戦前に父は無事出征から帰り、全国三位表彰されるほどの腕を持つ洋服店でしたが、母の身内から「角館の山で暮らしたら」の忠告で、父の里(秋田県美郷町)に親子三人で住むようになりました。
ところがそこで、戦争の恐ろしさを目の前に見せつけられることになりました。空襲のサイレンが鳴るとか、綿帽子の「防空頭巾」をかぶって防空壕に逃げたり、何とオッカナイこと、山の中でのんびりとB29をながめていたのとは全く違う所でした。
恐ろしかった原爆の戦争映画
戦争も終わり、私が小学校に通うようになって、月に一、二回、「広島・長崎の原爆」等の戦争の悲惨さや阿鼻叫喚の地獄の世界を映画館で見るようになりました。先生からは「目をそむけないでしっかり見て心に刻むこと」と言われましたが、とにかく、被爆者で埋めつくされた川、死んだ人が流されていく場面など、本当に恐ろしい場面ばかりでした。
傷痍軍人の姿に戦争を憎む
また、終戦のその頃は、戦争から運良く帰国できても、片足が無かったり、腕が無かったりした傷痍軍人ん)が、お金を貢いで貰うために、街中を苦しい体を引きずって一軒づつ回って、生活費を求めていました。私は気の毒に思う前に、戦争そのものを憎みました。戦争の恐ろしさを実体験して、気が狂った人もいました。私の父はそんな人を見ると、自宅に連れてきて、丁寧に手厚くもてなしました。私の子供の頃の、誇り高い父の想い出です。
原町の神風特攻隊員は
原町に住むようになって、若い頃たまたま、押釜のOさんというお婆さんのお宅には、特攻隊がよく集まったそうです。特攻機に乗る前に、せめて両親に一目会って心おきなく死出に向かえるように国が計ったそうですが、しかし、特攻隊員は誰一人自分の実家へは帰らずに、Oさん宅で一夜を過ごして帰っていったと聞きました。特攻隊員の残された文集の文面も、国の意に添うように書かなければ届かないし、残されないし、また懲罰も待っていたとのことで、何とも恐ろしいことです。
元特攻隊員は黙して語らず
二十年位前に、ある集会の担当をしていた時期がありました。その人々の中に終戦で無事逃れた元特攻隊の方が数人おられました。でも、その方々は本当に黙して語らず、数カ月にポツリポツリと当たりさわりのない話をされていたという記憶があります。
戦争は絶対いけない
とにかく、どんな理由でも戦争は絶対いけない。戦争を起こす元を無くして、いろいろな方法で今の平和をずっと守っていかなければいけないと患います。