終戦の年の十歳まで上海に
私は一九三五(昭和十)年、中国の上海で生まれ、終戦の昭和二十年、十歳(小学四年生)まで中国にいました。その戦時下の中国での様子を、思い出すまま述べてみます。脈絡のない文をご了承ください。
①”日本兵による蛮行”
当時の私が国民学校二年生まで住んでいた上海の閘北区の家の前は、一九三二(昭和七)年の上海事変の時、日本軍の砲爆撃で、かの偉容を誇った上海商務院書館は無残にも瓦礫と化し、鉄筋とコンクリート片を残し、広大な敷地跡には瓦礫と白骨が散乱していた。
日本兵に大変可愛がられた
その鉄筋盗みを見張るため、近くに木造ながら頑丈な兵隊小舎を設け、十数名の日本兵が駐屯していた。私はそこの兵士に殊の外可愛がられ、よく遊びに行き、軍のトラックであちこちに連れていって貰った。日本兵も無謀な戦争に徴用され、内地に残した家族や子供達のことを想ってか、良い小父さんであった。
だが、兵士たちは徒然を紛らわすのに、鉄筋盗みや疑わしい中国人を兵舎前の三本の杭に縛り付け、銃剣を構えて脅すのが日常であった。縛られた彼等は、命乞いをする者、殺されることを諦観している者と様々であった。私は、実際に殺すところを見なかったのは幸いであった。
中国の友達の父が宙吊りに 私の一言で命が救われる
瓦礫の中で、日本人が食べ残したスイカの白身をむさぼっていた同年配の中国少年と友達になり、スイカをあげたりした。たまたま、彼の父も掴まり、高い天井から後手に宙吊りにされていた。それを見て、宙吊りの父親のいつ殺されても構わないという表情と眼差しが今でも忘れられない。私は兵士に、「親子を放してやらなければ、明日から遊びに来ない」と言ったら、解放してくれホッとしたこともあります。
②”上海の空襲”
一九四一(昭和十六)年十二月、夜中の砲声で目が覚めた。太平洋戦争が始まり黄浦江(※ホワンプー川・上海の中央を流れる)に繋留されていた米英艦との砲撃戦だった。
一九四三年には、安全のため同じ上海の虹橋路に移住した。当時日本軍は、今の上海虹橋空港に軍の飛行場を建設していた。アメリカの艦載機が拙宅の上を超低空で爆撃に来る日常だった。その時はさほど怖くなかったが、空襲警報下、学校から独りで三キロメートルの道をスクールバスのターミナ
ルまでの空襲は生きた心地がしなかった。
米軍B29の示威的飛行 日本軍の高射砲は届かない
空襲といってもB29が飛来しただけで、日本軍の対空砲火の凄まじい音が恐怖心を煽ったのであった。当時上海には、精鋭の海軍特別陸戦隊本部をはじめ、日本軍人十万人、民間人十万人が居た。B29は爆弾を落とすのでもなく、一万メートルの上空からの示威的飛行であった。日本軍の高射砲は届かない。高射砲の破片で何十名かの市民が怪我をした。
「日本軍の敗戦も間もない」と
たまたま撃墜されたB29の残骸を南京路の上海競馬場に誇らしげに展示していた。それに対し中国人は、日本軍の敗戦は間もないと噺笑していた。
③”日本人街の賑わいと対米戦への備え”
上海には、日本人の映画館や劇場が数館あった。観に行くと必ず、椅子の下を見るよう放送があった。反日家による時限爆弾が仕掛けられていないかを、確認するためであった。
日曜日には、いわゆる日本人街の呉淞路は、日本人と軍人、中国人で溢れる娠わいだった。日本兵はすれ違う上官に対しては立ち止まって挙手敬礼の習わしがあり、兵卒は数歩歩いては敬礼するのだが子供心に気の毒に思えた。
日本兵もまた戦争の被害者
一九四五年になると、我が家の広い庭に、日本兵が塹壕造りに毎日汗を流していた。休憩時に彼等と話すと、故郷の家族のことに話がはずんだ。日本兵もまた、無謀な戦争の被害者でもあった。
④”対中国蔑視教育の恐ろしさ”
一九四五(昭和二十年)の終戦で、多くの日本人とともに、私も無事引き揚げることができた。
やがて一九四七年、内山完造氏との縁で日中間航空の第一便で訪中し、以来一九九〇年代からは度々、幼児期の故郷上海を散策し、旧懐の念を満たしてきた。
私の心の中にも蔑視感が
ある訪中での晩のこと、有名な上海オールドジャズからホテルへの帰途、タクシーの助手席に乗り南京路の綺麗なネオン街をビデオに撮っていた。すると、運転手が怒った口調で車を歩道に寄せ、降りてくれと言わんばかりであった。助手席は原則女性が座る座席だったのです。私はその無礼を謝ると親切に送ってくれた。
私はそれにしても、初めて中国人に頭をさげて謝るなんて、何かプライドが悔しかった。私の心身にも中国蔑視感があったのだ。昔の習慣や教育の大切さや恐ろしさを感じた。
日中の平等互恵、友好教育を
昨今、メディア等で中国の恐ろしさが伝えられているが、江南地方の古鎮に行くと、百年一日の如くのんびりした日常生活や人情に触れられる。素晴らしい水郷の風景や文物、人なつこい住民に接すると、平和のありがたさをしみじみ感じる。
中国も義務教育での反日教育などせず、平等互恵、友好の教育に熱を入れて貰いたい。それが今後のわだかまりない日中両国友好になると思う心境です。