今の子供より幸せだったかも

 私は一九二八(昭和三)年生まれで、今年八十歳。子供三人、孫九人に囲まれるおばあさんとなりました。
 今から七十年も前の私たちの幼年時代は、自然を友に、川の流れで魚をとったり、水泳ぎをしたり、草や木の実で遊び道具を作り、また隣どうしの友と棒を持って追いかけっこをしたこと、テレビと勉強に釘づけされている今の子供に比べずっと幸せだったのではないかと思われます。

女学校では授業をつぶし農作業などを行う

 でも青春時代の真只中であった私達は、昭和十七年四月、原町高等女学校に入学するや、戦争のため学校の授業をつぶし勉強どころではなく、出征しゅっせい兵士の農家の田植えや稲刈り、麦刈り、塩作りなど何でもやりました。
 大東亜戦争も激しくなり、いろんな制度がしかれ、義勇ぎゆう軍とか、軍属とか、挺身隊ていしんたいとかの名前がつけられ、あらゆる面からお国の為必ず勝つとばかり信じきった国民は、何の屈託もなく召集されたのでした。

郡山の日東紡工場に動員

 とうとう私達、現役の在学生にも学徒動員令がしかれ、三年生の十月に、原女第十七回生の校友百二十名とともに、郡山の日東紡績富久山ぼうせきふくやま工場に行くことになりました。嬉しいのか寂しいのか無邪気な年頃で、トランク片手に、り豆を入れた救急袋と防空頭巾を肩にして、原の町を後に親元を離れ郡山へと向かったのです。
 工場の寮に入った私達は、十二、三人づつ部屋割と職場の割振りをして貰い、せんべい蒲団ふとんに身を休めたのです。どうすればいいのか何もかも未知のことばかり、ただお国のために働かなきやとばかりに張り切ったものでした。

流汗鍛錬同胞相愛りゅうかんたんれんどうほうそうあい

 工場には聖堂があり、週一回の朝礼では、秀瀬日吉工場長を中心に、「人よ醒めよ醒めて愛にかえれ、愛なき人生は暗黒なり」と、また合掌した両手をお腹に叩きつけ、力いっぱい「流汗鍛錬同胞相愛りゅうかんたんれんどうほうそうあい」と繰り返し唱え、一日のスタートを切ったのです。
 皆、厳しい寒さと空腹に耐え、私はロックウール(岩綿)の仕上げの職場でした。板にしたロックに寒冷紗かんれいしゃ(目の粗い綿布)をコンニャク糊にて張り付け、乾燥室で乾かし、防音用に使用するとか聞いておりました。

昭和二十年四月十二日の大空襲

 ところが、米軍の攻撃もだんだんと本土に近づいてきて、各地での玉砕ぎょくさいが報道され、郡山市の我が軍需工場にも、突然B29の大編隊が襲ってきたのです。

ギラギラのB29がもう頭の上にきていて

 昭和二十年四月十二日のことでした。まもなくお昼になろうとしていた頃、空襲警報が鳴り渡り、もうその時は頭の上にはギラギラのB29がきていました。これは大変と思う間もなく、ドシーンと爆弾の雨あられ。あわてて防空壕へと入る。続け様にドシーン、ドシーンと、たちまち防空壕は崩れ落ち、下敷きになったのです。
 でも必死に頭の上の土をきはらい、やっとの思いで這い上がって見た様は、それはそれは、工場は火の海、周りには血だらけの人が泥まみれでうめき声をあげている悲惨な状況でした。
 僅かしか離れていない田んぼには大きな穴、どうしていいやら、泥沼化した田んぼの中を機銃を浴びながら走り抜けました。やっとのことで静まったと思った頃に、田んぼの土手にすわって、救急袋のゴマ塩を一なめした時の、その味は今でも忘れられません。
 夕方になって皆はどうしたかなと思いつつ、ただ呆然としてうろつき、厳粛であるべき聖堂いっぱいに横たわった人々、何がどうなっているのかわからないまま、さまよいました。

原女生にも負傷者が出て

 後になって、木野田愛子さんと相田文子さんが同じ防空壕に入り生き埋めになり病院に入ったと聞き、自分も痛む足を引きずりながら寝巻きを持って見舞いましたが、自分ばかり逃げまわって、私は本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
 焼け残った寮では、会津耶麻やま女学校の犠牲者の通夜が行われていました。亡くなられた方のご冥福をお祈りすると同時に、我が原町女学校の友には負傷者は出ましたが、一人の犠牲者もなかったことにほっとしました。

英語教育に不満と悔いも

 やがて終戦を迎えた私達は、又本業の学校の授業へと戻りましたが、勉強に身が入らず、特に敵国語の英語等は全く分からず、不満から誰言うとなく白紙同盟を実行したこともあります。今になってアルファベットの読み書きも出来ず、横文字の多い今日、不便を感ずるばかりです。

四十年ぶりの同窓会

 終戦から三十八年がたち、私達第十七回生は「なでしこ会」と名付けて同窓会を修学旅行と銘打って開催。東京・横浜・箱根方面で郡山動員や空襲の話題に明け暮れました。
 そしてさらに、四十年ぶりの昭和六十年に富久山ふくやま工場を訪ねることになり、同じく当時動員生だった川俣かわまた工、磐城いわき女の三校合同同窓会を感激のうちに開催しました。
 また当時の悲惨な戦争体験を二度と子や孫に繰り返させないために文集に残しておこうと話が進み、動員生と、当時の引率の先生方や関係者の思い出を綴り、一冊の本『学徒動員から四十年』として発行することができました。