私は一九一九(大正八)年十一月生まれで、今年八十九歳になり、夫、子供、孫に囲まれ、幸せな日々を過ごしております
母校原町女学校の教師に
思えばもう六十六年も前の話ですが、昭和十七年四月、私の母校である原町高等女学校教師として着任と同時に、新入生一年一組の組主任となり、私の教職の夢かなった喜びとともに、厳しい現実にとまどう毎日でした。そして二年、三年と担任は持ち上がり、自分の職業に誇りと希望を抱きつつ生徒の指導に励みました。
昭和十九年十月動員へ 十四、五歳の三年生百二十名
やがて、太平洋戦争が日増しに激化してきた昭和十九年十月、原町高等女学校三年生に学徒動員の命令が下ったのです。当時十四、十五歳の可憐な少女たち百二十名が、学校長半谷虎雄先生の教訓だった”大和なでしこの精神”を胸にいだき、十月十四日、郡山市の日東紡績富久山工場に出動したのです。
私は遅れて翌年一月郡山へ
生徒から三ヵ月遅れの二十年一月で、多少気楽な旅立ちで、乗車券の購入には制限があり、特別に知人に依頼して手に入れました。
当時私は二十五歳、原ノ町駅を朝5時の汽車に乗り、生まれて初めての郡山駅に下車すると、降り積もった雪が歩道の脇に一メートル位ありました。膝下まであるゴム長靴をはいて工場へ向かい、幸いバスに出会い、富久山工場まで乗ることができました。バスの窓からの景色は、降り積もった雪に太陽が輝いてとてもまぶしく、まさに一面の銀世界でした
工場へは午後三時ごろ着きました。正門の守衛さんに受付を済ませ工場に入ると、建造物の壁は墨流しの模様で黒く偽装され、ガラス窓には紙貼りがしてあり、軍需工場の物々しさを感じました。寮に案内され、先に引率していた目迫豊先生と松崎(大島)節子先生にお会いし説明や指導をいただき、早速目迫先生が生徒達の仕事の現場へと案内してくれました。
生徒の働く姿に言葉も出ず
紺色のスフサージの作業服に身をかためた生徒たちの、きびきびと働いている姿に接し、懐かしい対面なのに安堵といじらしさを感じ言葉が出ませんでした。心の中で「ご苦労様」と、ただ頭が下がる思いでした。
この工場に学徒動員されていたのは、他に磐城高等女学校と川俣工業学校の二校でした。原女生も顔見知りになり、苦しい中にも交流があったようです。
私の毎日の任務に、生徒から頼まれた買い物や常備薬の購入で、町へ出かけることも多々ありました。でも工場内で生徒たちの作業現場の巡視が最も大事で、生徒一人ひとりの健康状態などもみたのですが、その任務の方が楽しみでした。
苛酷な重労働に耐えて
紡績工場ですから、生徒たちは悪臭や騒音に悩まされ、厳しい寒さに耐え、薬品で手は荒れたりしていました。最も過酷で気の毒な仕事で私の胸を痛めたのは、耐火レンガやガラス繊維製造所でした。薄暗い穴蔵のような所で、汚れた作業衣に防空頭巾を被り、一輪車に粘土を積んで運んだり、型に入れた粘土を窯に入れたりの重労働です。顔は砂ほこりにまみれ、目だけ光らせて働いている姿には威圧感さえ感じました。
窯場の真っ赤な炎に恐怖を覚え、その熱さと裏腹に、風よけもない野外の北風に煽られ身を切る寒さに耐えながら、ガラス繊維を整理している生徒もいて、可愛そうでなりませんでした。
作業は午前八時から午後五時までで、成長盛りの生徒たちですから食事の時間になれば、一目散に食堂に入ります。一膳の丼飯で、時には白米飯もありましたが、大根飯やさつまいもやその蔓の入ったご飯、又はうどん粉の入ったご飯やきゅうりの入った味噌汁に梅干しが普通だったことを覚えています。常にひもじい思いであっても「戦争に勝つまでは」と青春も味わえず頑張っていたのです。
家からの小包に大騒ぎ
時には故郷から小包が届き、部屋中大騒ぎになることもありました。保存食の大豆や米を炒ったものや、それに砂糖をからめた手作りの菓子、干しいも、干し柿、餅など懐かしい、家族の愛情が感じられるものばかりです。おそらく親や家族は、自分の食を減らして子供のために送ったと思います。生徒たちも皆で仲良く分け合って食べていました。夜八時過ぎまで夜学がありましたが、疲れて居眠りになり身は入らず、その後の入浴も一週間に二度、三度で、大勢なのでお湯も少なくなり、最後の人は足だけ洗うのが関の山という有様でした。
蚤を煮沸して退治
洗濯も満足にはできず、衣類についた蚤の寄生にも悩まされました。血を吸い、痒くてたまらず、実に始末の悪いやっかいものでした。この不気味な寄生虫を駆除する方法は、薄暗い寮の部屋で火鉢に火をおこし、洗面器にお湯を沸かしてその中に衣類を入れ煮沸して退治するのです。
また生徒に病人が出ても、充分な薬もなく悪い環境で満足な看病もできず、何年経っても大変申し訳なくお詫びするばかりです。
昭和二十年四月十二日郡山市の大空襲に遍う
ところが、終戦間近の昭和二十年四月十二日、午前十一時頃、アメリカ軍のB29の爆撃をうけ、工場は壊滅、死者百二十一人、負傷者二十七人の大空襲でした。幸い、原女生には死者はなく負傷者も数名で、本当に不幸中の幸い、神のお助けと思わざるを得ませんでした。命からがら逃げ回って避難し、野宿で一夜明かして工場に戻り、即、原町へ帰宅の運びとなったのです。
戦争を後世に伝えたい
このような数々の苦しい体験を生んだ悲惨な戦争を、将来とも決して繰り返してはならないと後世に言い伝えるのが私たちの任務であると思っております。