私は一九三〇(昭和五)年七月一日、鹿島区江垂生まれで、今年七十八歳です。

憧れの相馬中学校に入学

 昭和十八年三月に鹿島の真野国民学校を卒業。十二歳で大きな希望を胸に相馬中学校(現在の相馬高校)に入学します。勿論鹿島の自宅から中村町(相馬市)まで「汽車通」です。しかし、憧れの中学生になれたものの、当時は昭和十六年十二月から太平洋戦争が始まっていましたので、入学後一学期ぐらいは教室で勉強しましたが、その後終戦までずっと学徒動員で穴掘りなどの作業の毎日でした

相中生の全員が学徒動員に

 昭和十九年、相馬中学生は全員学徒動員になり、五年生は福島市の日東紡績ぼうせき工場へ、四年生は神奈川県川崎市の工場へ(二名の犠牲者が出た)、三年生は福島県の石川町の飛行場へ、私たち二年生も地元で動員作業に駆り出されました。
 中村町の原釜や新地町の海岸では、海水を汲んで大きな釜で煮沸しゃふつし、塩を取る製塩せいえん作業を行いました。原釜の北に高い 煙突の製塩所があり、そこには五、六十人の朝鮮人が働かされていました。終戦間近の頃、爆撃でかなりの朝鮮人が死んだと聞きました。

原一小に寄宿して作業場へ

 昭和十九年の五月か六月頃から、原町にあった陸軍飛行場に関連した作業も行いました。家は鹿島ですから、原町小学校(現在の原町第一小学校)に寄宿し、そこに数ヶ月寝泊まりし、そこから原町のあちこちの動員の作業に出かけました。寄宿も動員作業の指導も、相馬中学校の教員でなく軍曹や伍長ごちょうなどの軍人が、直接私たち相中生を指揮しました。
 食事は「亀OOO」という仕出し屋さんが毎日リヤカーで運んできました。大豆メシで大豆のカスに米が少しだけ入っているまずいご飯でした。
 寄宿してすぐに、不衛生でしたから、シラミが増え、痒くて痒くて夜は眠れなかった。みんなで裸になって毎日シラミつぶしをしたり。風呂は数日に一回、青田材木屋さんに入りに行きました。何百人も入るのですから、体など洗わないでただザプンと湯につかるだけでした。空襲の時は校庭のけやきの木のそばに四、五ヵ所あった防空壕に逃げました。

姉から白米のおむすびを貰う

 毎日幸い作業でしたが、私には嬉しい「役得」がありました。私の姉が原町の呉服店に嫁いでいて、私は指導の軍人から、特攻隊の首に巻くスカーフを買ってこいと命令され、姉の店に行くことができました。すると姉はいつも、空腹の私のために白米のおむすびを作ってくれて、それは本当に美味しかったし、楽しみでした。戦争時代の、嬉しかった思い出です。

大木戸に飛行場の弾薬庫を作る

 原町飛行場の飛行機の「避難所」作りの穴掘りは、御本陣山の旧消防署の望楼ぼうろうのところや、石神の欠下などで行いました。また移転する格納庫の資材運びも行いました。
 よく覚えているのは、十九年の夏の暑い毎日、大木戸の原町高校グランドのすぐ南、笹部川の北側の場防(野馬土手)を利用した「弾薬庫」作りです。現在のような重機などまったくありませんから、スコップで穴掘りし、モッコで土を運んだり盛り土したり、本当に幸い作業でした。確か四隅には柱を立てる土台の大きな礎石そせきがあるはずです。弾薬庫は完成しないうちに、翌二十年終戦になりました。