私は一九三二(昭和七)年鹿島区小池生まれで今年七十六歳になります。
現在の原町高校を卒業しますが、原町高校は今から七十年前の昭和十四年四月が創立です。現在の小川町のサンライフ南相馬のところにあった老朽の元小学校の校舎を使い「原町立相馬商業学校」として発足しました。当時相双地区に相馬中学校、相馬農蚕学校、双葉中学校などがあり、比較的新しい創立でした
設備も無く、専門の先生もいない相馬工業学校に入学
しかし、原高は「商業学校」だったのですが突然、昭和十九年四月から太平洋戦争の「戦時非常措置法」により、学生を労働として工場で勤労動員させるため、国策で「工業高校」に転換させられてしまったのです。「工業高校」といっても学校に設備は何も無く、商業の先生ばかりで工業専門の先生は一人もいませんでした。
私は上真野国民学校を卒業し、転換したばかりのそんな「相馬工業学校」に希望をもって志願しました。その時の入学試験場には教官がずらりと並び、一人ずつ試験場に入り何回かの口頭試問に応じ、牛後は校庭で体力の度合いを試され発表日を待ったのです。そして合格発表は、二階建て校舎の正面玄関に受験番号だけの発表でした。
入学の教科書は遠州屋書店さんで戦闘帽、背嚢、カーキ色の制服
合格後、戦争中でしたから、入学用品は学校で、背嚢、戦闘帽、ラシャ製の黄色い九曜星に「相工」と金モールで表示されていた校章、それに巻脚絆、国防色(カーキ色)の制服などを購入しました。教科書は本町の現在の銘醸館の北隣にあった遠州屋書店より買い求めたが、新聞紙のような粗末な紙質で、裁断していないものが大半でしたし、また先輩から譲りうけることも多かった。
入学式は、先輩が川崎の軍需工場や原町紡績工場の通年動員があったので、一年から五年生まで全学年が揃っていたかどうかは定かではありません。学校へは毎日、自転車で石神の山道を列を作って通学しました。授業といえば、入学当時は普通授業だったが、まもなく食料不足を補うために西校庭の一部は畑に変わり、マメやサツマイモなどの農作物を栽培し、残った校庭で教練や体育を行いましたが、毎日毎日勤労動員作業の連続でした。
駅の東の「帝金」工場で作業 工業の授業はほんの数回でした
当時原ノ町駅のすぐ東、現在の保健所や県合同庁舎付近には、”テイキン″とよばれていた「帝国金属工業株式会社」という大きな軍需工場があり、私たち一年生は十二歳で現在の中学一年生の年齢でしたが、そこでわけが分からないまま実習作業を行いました。砂の型に溶けた金属を流し込み、鋳物で機関砲などの部品を作っていました
美術の先生が製図の授業を行う
ほんの数回でしたが、工場の敷地にあった校舎のような大きな建物の中で、たしか中村さんという優秀な技師さんに工業の講義を受けたこともありました。学校では美術の藤田魁先生から烏口(線を引く銅筆)を使い、製図の授業を習ったりしました。工業専門の教師でもないのに、先生方も大変だったと思います。
韓国人の仕事ぶりに驚かされる
その「帝金工場」で今でも一番印象に残り、よく覚えていることがあります。それは、「半島人」とよばれていた韓国人がかなりの人数働いていて、溝を掘る作業などを行っていましたが、その仕事ぶりがすごかった。糸も線も引かないのにピシッと見事にまっすぐにスコップで掘り進んでいき、子ども心にも「たいした仕事をするもんだ。日本人にはとても出来ないな」と大変感心したものです。
戦後になってその韓国人たちは、生活のためドプロクを作って商売をしていたことも記憶しています。
山から薪の運搬作業もつらかった
また、原町飛行場の格納庫の解体業や偽装用ネットを張り、それに木炭トラックで飯舘村の山中まで輸送され、バッカメキでの薪や木炭運搬や、原町の高松での開墾作業もつらかった。さらに学期一回ほど、国見山や小高神社を経て海岸線を強行行軍するなどの行事も思い出されます。
入学の時は、工業学校だからやがては工業技術者をめざそうと志し期待していたのに、戦争に振り回されて肝心の勉強などはまったく出来ないまま、終戦後の二十一年四月に学校は再び「商業学校」に戻ってしまい、その意味で誠に残念な青春時代でした。
しかし、あれから六十余年、あの当時鈴木勝利校長や松浦一臣先生(『ハリーポッター』の翻訳者松岡佑子さんの父)の指導で私たち生徒が植えたケヤキの木も、今や大樹となって原町福祉会館の周囲に優しい木陰をつくってくれていて、あの付近を通るたびにいつも戦争の学生時代のことを思い出しています