戦争をする国への地ならしか

 政府は防衛省の設置を決め、教育基本法を改正し、教育の国家統制を図ろうとしているが、何たることかと云いたい。多くを語るまでもなく、そのねらいは戦争する国への地ならしで危険千万である。
 私は戦争のあの時代に育てられて来たので、歴史の足跡を語らずにおれなくなった。

戦争の中で音‥ってきて

 昭和二年七月に生まれ、昭和の子供として、改訂教科書(七年改訂)によって、教育されることになった。世に云う「サイタ サイタ」、「ススメススメ ヘイタイススメ、ヒノマルノハタ バンザイ」と軍国日本を担って立つ青少年を育てる教育を受けて育った。二年生の時、二・二六事件が起き、世は大変な時代になっていた。やがて昭和十二年七月七日には北京郊外での衝突から中国との全面戦争へと突入し、十三年には国家総動員法が制定され、戦時体制となり、十五年には大政翼賛会たいせいよくさんかいの設立、そして紀元二千六百年の式典で八紘一宇はつこういちうの神国精神を風靡ふうぴし、戦争の昂揚を図った。
 私たちはこの様な中で成長して来た。そして遂に十六年十二月八日日米英開戦となり、二十年八月十五日まで塗炭の苦しみの戦いとなり、原爆の試練をへて戦争は終わった。戦後になって、何のための戦争であったのか検証されることになったが、あまりにも甚大な犠牲を強いた戦争であった。

東京大空襲も体験した

私も十八年十月二十一日、「学徒出陣」を神宮外苑に見送り、自らも「学徒動員」として軍需工場に赴き、二十年三月十日の東京大空襲の中をかろうじて生き延び、その後の空襲にも耐えて生き延びた。

終戦の一週間前にソ連軍が侵攻してきて

 ご存じの通り、ソ連軍の満州侵攻は終戦のわずか一週間ほど前の ことです。国境付近の守備隊の中には、戦車とともに進軍してくるソ連軍に激しく抵抗して戦死するものも多数あったと記録されていますが、日本陸軍最強といわれた関東軍もその頃には主力部隊は南方に移動し、後に「張り子の虎」とまで酷評されたように、広大な地に散らばる開拓民や居留民を守り、安全に避難させる力は全くなかったのです。

「学徒出陣」で先輩達は殆ど帰って来なかった

十九年には繰上徴兵検査で、現地で動員され、本土決戦への動員に繰り入れられてその苦難を味わった。忘れることの出来ないのは、あまた多くの先輩達が「学徒出陣」となり、殆ど帰って来なかった。特攻で散っていった友もいた。
 死んだ者は生き返らない以上、生き残ったものは何を為すべきか、いつも問われている。私は未来のために過去を語っている。戦争を知らない次の世代の方々よ、古きを尋ねて新しきを知る(温故知新)。二度と戦争の無きよう、過去に学んで下さい。私も終戦をへて、平和の大切さを学び、今を生きています。