勤労動員先の横浜ではじめて玉音放送を聞く

 昭和二十年八月十五日の朝。緊急集会席上、生まれてはじめて「玉音放送」を聞いた。音声はとぎれ気味で不鮮明だが、「大東亜戦争」が終わったことを報じていた。周囲の者から嗚咽おえつがもれてきた。幼い中学生はつられて泣いた。
 横須賀海軍航空技術しょう金沢八景支しょうに「勤労動員」されていた私たち相馬中学三年生一七〇余名(昭和19・10・17~20・8・19)は、即刻逗子ずし駅から貨物列車で二泊三日、東北本線経由で帰郷できた。
 寮から駅までの途中に海軍下士官かしかん猛者もさが、荷物を背負った親子づれに毒づいていた。いつどの列車で帰れるのやら混雑しているホームでは教師の注意も聞かずに非常用のコッペパン入り段ボール箱を破壊するやら餓鬼がきになっていたようだった。
 間もなく元の学業生活に戻るが、一年上の先輩は全員四学年卒業。我々は四年卒と五年卒と新制高一卒と三回にわたって卒業している。因みに同級会の名称は「四五六会」、訛って「スゴロクカイ」と読む。
 「学徒動員」中の横浜で殉死じゅんしされた同級生の二君の霊に弔慰ちょういを捧げます。  

 故 南原文夫君(真野)
 故 菊地 さとし君(坂本)  合掌  
 昭和五十二年頃、この両君の三十三回忌をやろうと同級生で菊地君の母親(五人の息子さんの四人が戦死)を訪ねると、「さとし)も生きていれば、皆さんのような歳になっていたのに」と泣かれてしまい、一同で涙した。
 終戦から六十三年、何年経っても勤労動員生の誰もが生涯忘れられない悲惨な「大東亜戦争」であった。