十六歳、宮城の山奥で終戦

 昭和二十年八月、敗戦を知ったのは宮城県の山奥、笹谷峠の村、私は満十六歳、同齢の友は勤労奉仕に通学していたが、病弱の私は祖母と仙台空襲に焼け出された幼い従弟達と疎開して一カ月目だっだ。

はずかしめをうける前の「死」を覚悟

 敗戦を聞き、祖母、従弟はいいが私はまもなく死ななければならない。敵兵が占領に来れば娘達ははずかしめを受けるかも知れない、その前に死のうと思った。裏の河原に行くと夏の日は燦々さんさんと照り、川水はいつものごとく流れる、この変わりない風景のなかで私は消えてゆかなければならない。
 それは戦時中に感じた「死」と一変していた。戦時の死はみな一緒であり、国難にじゅんずるという意義が私達にもあり無意味ではなかった。しかしいま戦に敗れ、誰のためにもならない死がくるのは虚しく淋しく、涙がとめどなく流れた。
 川の色、せみの声とともに忘れられない思い出である。

昭和一桁は不信の世代

 占嶺は順調に進み、私が死ななければならない事態はなく終わったが、それからの月日は、私達戦中派にとって怒涛のごとき日々だった。今まで教えられたことはすべて偽りと報じられ、否定と非難と暴露を黙って聞く他なかった。昭和一桁は不信の世代と言われているのは当然で私は今も現在が「あれは嘘でした」ということが起こるかも知れないと心に思いつつ生きている。

戦争の時代を懸命に生き死んだ人々を、否定や非難は許されない

 そして、いくらあの時代を否定されても、あの時代を信じ懸命に生きて死んだ人を否定、非難することは許されないと思っている。

生く限り秘む文古び鳥雲に 美喜子
 昭和四十三年作。戦時中のことはすべて悪だったと十把一じっぱひとからげに断じられた世相がやっと正され始めた頃テレビに特攻隊負が主役のドラマが放映され私は涙してこの旬を作った。
 私の育った町(※南相馬市原町区)には戦時、陸軍航空隊があり、町の人々と軍人との交流があった。食料の不足のときも御馳走をつくりもてなし、親交を重ねていた。昭和十九年夏、戦況は悪化、航空兵は次々と戦場へ発ち、秋には特攻隊負もくようになった。私宅に遊びに来ていた人々にも命令が来た

死を覚悟した特攻隊員から何十通もの手紙をいただいて

 この健やかな若者も間もなく死ぬ、この人が永久に私の前から消える。少女の私は悪夢のなかにいる気持で言葉もなかった。く彼らも「お世話になりました」と敬礼をし、飛行機の翼を振って別れを惜しみ再びかえることがなかった。そして、その人達が書いた手紙や寄せ書きなどが私の手に何十通も残った。
 「美喜ちゃん、必ず勝つから心配しないで」とこの人々は言った。子供や私達を守るために生命を捨てるのだとも言った。信念はそうであろうと人間としての心の揺れを私は感じた。望んで死ぬのではないその人々を、せめて忘れないでおこうと心に誓って返事を書いた。

「明朝特攻隊で出撃します」

 特攻基地知覧ちらんの消印のある手紙で、「明朝出撃します。月は冴え原町を思い出しますが一切の情を排してきます」と死の何時間か前の手紙をくれた中田茂さん。しかし、この方も別の手紙にこんな歌を書いている。

月光に照らし出されし瀬戸の海
 あの島かげにわれも住みたし
 比島ひとうで特攻戦死の久木元延秀さんは、石垣島から「竜宮のやうに美しい」「八時に消灯され来し方を考えて若干淋しくない事もない」との人間の真情と次の歌を残された。
みちのくの國見を越えてさに恋ゆる
 今宵いかにとれ恋ひやまぬ

「平凡に暮らしたかった」

 民間パイロットだった「巴里祭ぱりさい」の曲の好きな井上清さんは、「銀行員になり子供を作って平凡に暮らしてみたかった」と私に漏らした。
 沖縄で戦死の川口弘太郎さんは「郡上のナァ八幡出てゆくときは雨も降らぬに袖しぼる」という歌詞の郡上節ぐじょうぶしをいつも唄った。
 あの人達の生身の思いを伝える手紙を失ってはいけない。持っているだけで罰せられると噂があったが、この遺筆いひつは守り通すと決意した。その手紙はいまも私の手許てもとにしかとある。
 それからの長い間、「特攻」は粗暴そぼう愚者ぐしゃの代名詞のように言われ続けたが、私には愛しい人々であった。

終戦から五十年、特攻隊員の手紙と日記をまとめて出版

 平成八年、この人々の手紙と、当時私が書いていた幼い日記をまとめ、『いのち』という本を自帝社から世に出すことが出来た。名も伝わらず、思いも埋もれた人の息吹をいくらかこの世に残すことが出来て、私は重荷を下ろした。

戦死に終る日起を写す花の冷え
昭和史に一書を加へぬ露しとど

 万世ばんせい特攻基地跡
  冬空に磔像たくぞうのごと特攻碑

 知覧ちらん特攻基地跡
  サングラス特攻の地をの色に
  三角兵舎あとに真白の延齢草えんれいそう