原町飛行場にこだわり
私は昭和九年二月、原町生まれです。子どものころから原町にあった飛行場にこだわりがあり、今でも写真を撮ったり調査したりしています。
小学校でも作業を行う
昭和十六年十二月八日の日米開戦のことは、まだ小学生で記憶は残っていません。でも戦時中は小学校も授業と奉仕作業が半々で、イナゴ取り、桑の木の皮むき、茅萱取りなどを行いました。
六年生の頃、原町飛行場に行き、その一角に縄を張り、草地のところを掘り返し土を出して畑に見せかける、一種のカモフラージュの作業も行いました。空襲に備えたのでしょうが本当に幼稚なことですね
爆弾投下 防空壕の中で「ダメかな」と思った
私にも空襲の体験があります。昭和二十年の八月、アメリカのグラマン機が海の方から六・七機で飛んできて無線塔を旋回し、操縦しているアメリカ兵の表情が分かるほどの低空で町に突入してきました。その頃の原町の町並みはせいぜい二階建てでしたから、ずっと無線塔も原紡(原町紡織工場)も見通せました。
終戦間近の八月九日か、十日だったと思います。私の実家は原町区の中央通りで駅にも近く空襲警報で家の庭の防空壕に入っていました。ところがその頃あった石川製糸工場(今でも三階建ての建物が残っています)のトロッコ線路のカープのところに三十キロ爆弾が投下され、私は防空壕の中でボーンと浮いたようになりました。もうその時は「ダメかな」と思ったほどの大きなショックでした。
鉄片が家の壁を突き破る
同時に原ノ町駅の機関区、駅の東にあった帝金(帝国金属工場)、原町小学校(現・原一小)、そして一番ひどかったのが原紡への攻撃でした。原紡は小松先生など三名が機銃掃射で死んだり、七日間位燃え続けていたことを覚えています。
駅の機関区への爆撃では死者も出ましたし、五十センチほどの鉄の破片が私の家まで飛んできて台所の壁を突き破っていて、子ども心に大変恐怖を感じました。
戦跡めぐりの案内をして
私は今年依頼があってへ郡山・福島、保原の「九条の会」の皆さんの原町戦跡めぐりの案内をしました。飛行場跡のガイドをしながら「戦争はぜったい二度とやるべきではない。十九や二十歳の若者を戦死させるなど、皆さんの子どもだったらどうですか」と話しています。
田母神航空幕僚長の発言は、自衛隊のトップとして大変問題で、戦争体験がないので戦争の実態や悲惨さが分からないでしょう。平気であんなことを言っているけど、戦争を経験した私たちには信じられない発言です。