昭和三年生まれ 今年八一歳

 私は昭和三年四月、相馬郡飯館いいたて村に生まれ今年八十一歳になります。飯館いいたて村の草野小学校に四年生まで通い、五・六年は福島第一小学校に通いました。実は「旨いものが食えるから、ちょっと留守番に行ってみろ」などと言われ、福島の叔父の養子となったのです。
 その後養父が安達あだち地方事務所に転勤し私は二本松にほんまつの旧制安達あだち中学校(安達あだち高校)に進学。そして三年生の十五歳で軍隊に志願し、昭和十九年四月に入隊、終戦まで約一年五ヵ月間兵隊として軍隊生活の経験があります。
 昭和二十年八月の終戦で九月に福島の渡利わたりに復員し、一年間の代用教員の後、福島青年師範学校に入学します。昭和二十五年三月に卒業し、相馬農業高校の飯館いいたて分校へ農業教諭として初赴任以来、教員の道を歩んできました。
 ついては、私の軍隊時代のこと、実は神風特別攻撃隊の要員だったことなどを綴ってみたいと思います。

一年五ヵ月の軍隊生活 あの戦争は何だったのか

 戦後六十年の月日が流れ、この間さまざまな形で「あの戦争は何だったのか」「なぜ負ける戦争をしたのか」といった問いが何遍なんべんとなく繰り返されている。
 しかし、これらの問いに対して私たち日本人は、未だにきちんとした答えを出していないような気がする。素朴な疑問として「あの太平洋戦争の目的は一体何だったのか」など、幾つかの問題がある。その昔、私も忠君愛国ちゅうくんあいこくの少年として育った。
 昭和十ハ年四月、旧制中学に入学した私達は、軍事教練を受けながら軍国主義を国是こくぜとした教育と食料増産の勤労奉仕に明け暮れる毎日。教科の授業は半分程度、夏休みの宿題は「軍人勅諭ちょくゆの暗記と墨書ぼくしょなど、まさに帝国軍人の卵として国防色の学生服、戦闘帽に背のう、巻脚絆まききゃはんという通学姿。

開戦 校長や配属将校の訓話

 十二月八日の開戦当日は全生徒が講堂に集合、終日ラジオニュースを聞きながら校長と配属将校の訓話、戦果に万歳万歳の一日であった。
 翌九日にも講堂で布告された「開戦詔書しょうしょ」を校長が奉読ほうどく、今大戦の目的は詔書しょうしょの冒頭にあるように「帝国は今や自存自衛の為。決然起って一切の障害を破砕はさいするの外なり」のごとく「自存自衛」であり「大東亜共栄圏」の建設にあると校長が訓示、さらに配属将校から、「常に在戦場ざいせんじょうの気概をもって滅私奉公めっしほうこう、勝利の日まで頑張れ」と軍隊口調で声高らかに訓示されたのを憶えている。

海軍甲種飛行予科練習生に合格

 私は小さい時から飛行機少年だった。戦争ごっこではいつも飛行機の役柄。将来飛行士になるため、少年飛行兵を志願するか、幼年学校から航空士官学校に進むかの選択となった。養父は陸士出身中尉ちゅうい傷痍軍人しょういぐんじんでその影響を受けていた私は、昭和十七年二月仙台で幼年学校を受験、身体検査で痔症により不合格。春休みに入院手術し、翌年受験するも完治していないと再び不合格となる。そこで中学三年の秋、土浦海軍航空隊で海軍甲種飛行予科練習生を受験、合格した。パイロットになれれば海軍であれ陸軍であれ、一日でも早く入隊して訓練を受けたかった。

土浦海軍航空隊に入隊、新居浜にいはまへ転属

 昭和十九年四月、土浦海軍航空隊に入隊。
 三ケ月の基礎訓練を終了、七月岡崎海軍航空隊に転属、翌終戦の年の二月奈良県大和海軍航空隊で飛行訓練に入る。昭和二十年六月松山航空隊に転属、十日後ににいはま特攻基地へ転勤、予備学生出身の特攻搭乗員二十名と寝食しんしょくを共にする。

基地には二十五機の赤トンボ

 新居浜にいはま基地は桃畑を切り開いた八百メートルほどの滑走路一本と付随する隠退いんたい路数本のみ。特攻機は複葉複座ふくようふくざ練習機の「赤トンボ」二十五機、五十キロの爆弾三十発程、トラック十二台、サイドカーカーが二台、兵舎へいしゃはなく歩いて十分の小学校の校舎だった。
 基地要員は岡本少佐が基地指令、副指令の与田大尉、第二十一桜特攻機隊長村上中尉ちゅうい以下中尉ちゅうい四名、少尉十五名(会津出身の湯田少尉がいた)、整備兵十六名、炊事係(年配兵)二十名足らず、基地補修要員八十名(年配兵)程度、我々のような操縦歴十五時間以内の練習生五名の編成であった。

雲の峰背みねせに急降下地に迫る 桃熟ももじゅくるる砂塵さじんにけぶる特攻基地

 すでに沖縄戦は大敗の情報を徴かながら耳にし、本土決戦に備えた「背水の陣」の様相が感じられる毎日であった。連日九時頃から砂塵さじんを上げての発着訓練、高度を取りながら急降下爆撃の訓練、出撃に備えての確保された燃料を残し、限度ある燃料を心配しながらの訓練は午前限りで終了、午後は図上作戦に没頭する事が日課だった。

特攻隊員と寝食しんしょくを共にして

 我々練習生は特攻隊員と寝食しんしょくを共にしながら、時には後部座席に同乗して訓練に参加することもあったが、その多くは彼らの身辺整理の世話だった。すでに覚悟は決まっていたらしく、音楽室に集まってピアノを弾き歌を歌い、詩をそらんじ、国難にじゅんずる青年たちの姿に敬服する時間が多かった。ただ、彼らの心のうちを推し量ることはできなかった。
 昭和二十年八月五日午前零時半頃、校舎内のベルが鳴った。非常呼集こしゅうである。三分以内に校庭指揮台前に整列する訓練は何回となく経験していたので慣れていた。間もなく司令が登壇、緊張した口調で命令の伝達「土佐湾沖に米機動部隊接近中、第二十一桜特攻機隊は午前三時発信を期し、直ちに準備に入る。総員かかれ」

いよいよ特攻隊員に出撃命令が出る

 特攻隊員二十名は直ちに別室に集合。管制中の薄暗い電灯の下、青白く緊張した司令と隊長が入室「いよいよ出撃の時が来た。呼名よびなされた者は一歩前へ」。次々と緊張した隊員が並ぶ。最後に隊長が呼ばれ十名となった。「日頃の訓練を存分に発揮し、天皇陛下のため、祖国日本のため所期の目的を達して貰いたい。成功を望む」と隊員に握手をして退室していった。
 すぐ司令の当番が荷を持参、隊長に渡す。真新しいふんどしとシャツが配られた。各自が自室に散り搭乗準備にかかる。午前一時三十分、司令室前集合の連絡あり。練習生五名は各部屋に別れて搭乗支度、衣のう類の整理を手伝う。隊員等は出撃覚悟はできていたらしく殆ど整理されていた。飛行服に身を包み、日の丸の鉢巻はちまきき、絹地きぬじの真っ白なマフラー、数人は軍刀を携え、新しい飛行靴を履いて無言で指令室廊下に走る。

私は緊張で身動きもできず

 やがて一種軍装に着替えた司令が、おもむろに沈んだ声で「成功を祈る」この一言だけ。続いて茶碗が渡り一升瓶の蓋が開けられ次々と飲み干された。互いに固い握手と抱擁が続く。みな冷静で沈んだ声、涙など一つもない。心中を察するに、勇躍ゆうやくして征途せいとの旅立ちを喜んでいるのか、悲しんでいるのか、極めて複雑な心境であろう。その身になった者だけにしか分からない。私は緊張のあまり、声どころか身動きもできなかった。

特攻隊員に稲荷寿司が配られ

 午前二時十五分、飛行場に着く。すでに十機の出撃機はエンジンをスローにして待機。爆弾が装着され、整備兵が慌ただしく走り回っている。月明かりでかなり明るいが、そちこちに懐中電灯が動いている。特攻隊員は滑走路の脇に着座して談笑の様子。間もなく、炊事班から食器缶が運ばれ「稲荷寿司」が配られているらしい。遠いので判別しにくい。隊員を囲み二十人位が食事の様子。時折エンジンが唸る。全体に緊張の時が流れる。近所の農民が桃の木の下で心配そうにこちらをうかがっている。箝口令かんこうれいが布かれているので出撃命令は話せない。

午前五時、出撃中止命令でほっとする

 長い長い時間が流れ、東の空が明るくなり始めた四時頃、副司令からエンジン停止の声がかかる。何だろうと思った。見回すと出撃隊員の姿はなく、兵舎へいしゃに引手上げたらしい。午前五時、兵舎へいしゃの指揮台前に集合の命が伝達された。みな出撃中止だろうと駆け足で兵舎へいしゃに戻った。特攻隊員等全員が司令室に集められていた。ほっとした表情に見えた。

中尉ちゅういが静かな声で「お前死ぬなよ」

 全員営庭に整列。司令から「出撃中止の報」のあったことを知らされ、さらに「何時でも出撃命令に対応できるよう気を緩めるな。本日の日課予定どおり」の指示があり解散となる。部屋に戻ると、隊員たちは流石にほっとした表情が隠せない。湯田少尉はニコニコしながら私に近づき、握手と同時に強く抱きしめて、静かな声で「お前死ぬなよ」と言った。その一言が今も耳から離れない。あれは、彼が自分自身に聞かせた心の声であったと確信している。その後も出撃中止の詳細な説明はなかった。
 それから、比較的平穏な日が経過した。平常の訓練は続行されたが、八月十三日午前十時十五分から十五分程度の発着訓練を最後に、私は操縦かんを握ることはなかった。

軍隊の体験から不戦の誓いを新たにする

 こんな体験から、私は「特攻隊員」の後輩と思い、さらに若い命を各戦線で散華さんげされた諸先輩に心から哀悼の誠を捧げ、不戦の誓いを新たにする次第である。
 陛下の玉音放送を聞いたが、受信状態が不良でよく聞き取れなかった。すぐ司令から戦争の終わったことを知らされ、わが隊からは「何事も問題を起こさず、整然と次の命令を待つよう」との訓示があった。それから二週間の残務整理を終え、各自郷里に復員した。