私は大正十一年九月、旧小高町おだかまち生まれで、今年八十ハ歳になります。父は私が一年生の時亡くなって、小高おだか小学校には五年生の一学期までいて、その後母の実家の原町に移りました。

水戸の日赤救護看護婦養成所に入学

 相馬女学校に四年間汽車通学して卒業、水戸の日本赤十字救護看護婦養成所に入学しました。当時の看護婦は民間の病院勤務よりも軍隊に直結していて従軍じゅうぐん看護婦の方が優先していました。
 三年間で修了のはずでしたが、私たち第二十回生の三十四名は、昭和十六年十月、半年早い繰り上げの卒業になりました。アメリカとの大東亜戦争が始まる二ヵ月前で、軍の上層部ではもう開戦を決めていたのでしょうか。

召集令状に飛びまわって喜ぶ

 卒業式の後すぐに、日赤の事務所に卒業生全員で挨拶に行くと、「明日、召集令状を発送する」と参事に言われ、飛び上がって喜びました。翌日原町の自宅に帰ると、召集令状(赤紙)が届き、軍の病院船に乗ることができるんだと、嬉しくて嬉しくて家の中を飛び回ったことを覚えています。
 昭和十六年十月、大阪の日赤病院の広い院庭に、全国から数千人の救護看護婦が集合し、部隊長が定められ、病院船に乗る人と、戦地に行く人に振り分けられました。私は茨城、栃木、群馬の人たちと一緒の班になり病院船に乗ることになりました。
 「胡北丸」という病院船に乗る予定でしたが、その船がなかなか来ないので、大阪の寺町、大きな立派なお寺が並んでいましたが、そこで二十日間ほど待機していました。入口には剣付きの銃を構えた衛兵が両側に二名監視していて、すぐ目の前のポストにハガキを出しに行くこともできませんでした。

「胡北丸」という病院船で中国へ

 その後、広島に移り、昭和十六年十二月はじめ、いよいよ病院船の「胡北丸」に乗りこみ広島から中国の大連だいれんに向かいました。大連だいれんは雪が降っていて三日ほど停泊。船は三千トンぐらいで、船の甲板も各部屋も病室もどこも真っ白に塗られ、三階建てになっていました。中国での戦争で怪我をした兵士や病気の兵士の患者さんを大連だいれんで乗せましたが、私の勤務は船底の結核患者ばかりの病室でした。そして大連だいれんには十二月末にもう一度行きました。

宣戦のラジオ放送は病院船の甲板で

 昭和十六年十二月八日の朝、私たちは「胡北丸」の甲板で全員ラジオ体操を終え部屋に戻ろうとしたとき、アメリカとの宣戦布告のラジオ放送を聞きました。開戦することは上の人たちだけが分かっていたのでしょう。私たちには病院船がどこにいくのか、傷病しょうびょう兵は何名かなどは秘密で、全く知らされませんでした。
 次に上海に向かい、日本軍が占領した七階建での大きな建物が病院になっていました。エレベーターもなくて、一階から七階までの往復や、重いベットを七階まで運ぶこともあり、大変不便な病院だったようです。さらに「アメリカ丸」で中国の北部の秦皇島しんのうとうに上陸しました。
 アメリカと戦争しているのに「アメリカ丸」だなんておかしいね、名前を変えたらいいのに、などとお互いに話していました。船舶輸送司令部により改名は出来ないそうです。
 秦皇島しんのうとうから汽車で揚子江ようすこう長江ちょうこう)を渡る駅に着き、船に乗って揚子江ようすこうを横切り南京に着き、更に上海へ向かいました。上海の病院では看護婦は充分で、折角だから半分だけとのことで、なんとじゃんけんで、上海に残る組と徐州じょしゅうへ行く人とに分かれました。私は上海から徐州じょしゅうへ行く組になりました。

ブドウ糖を作り人体実験をする

 徐州じょしゅうでは病院のすぐ近くが戦場で、死亡者や負傷者が続出しました。地雷で顔面負傷の兵隊も多く、治療にも苦労しました。
 患者に注射液として使うブドウ糖が不足しましたが補充がなく「現地で作成せよ」との総司令部の命令でした。
 そこで白ザラメ糖でブドウ糖を作り、同僚の看護婦で男まさりの性格の小林栄子さんは自ら危険を覚悟して人体実験台になりました。悪寒に襲われ一時意識も失い、危うく命を落とすような実験でした。結局ブドウ糖作りは失敗で患者さんには使用はできませでした。
 徐州じょしゅうでの勤務は一年半ほどで、また上海の部隊と合流し、広島の司令部に引き揚げました。

遠くニューギニアのラバウルへ 灼熱しゃくねつの砂浜で船を待つ傷病しょうびょう

 次に向かったのは、日本から数千キロ離れた遠い遠い南の島ニューギニアのラバウルでした。日本から二週間もかかってようやく到着しました。
 ラバウルの港といってもただの砂浜で、船は沖合に停泊し、陸地へはボートで行きます。ところが、傷病しょうびょう兵はその熱帯のじりじり灼熱しゃくねつの太陽が容赦なく照りつける砂浜に何日も置き去りにされているだけで病院船を待っていました。病気や怪我をしているのに屋根もない酷暑こくしょの砂浜で、食べ物もなく、ミミズや虫を食べ、運が良ければ助かるという本当に悲惨な状態でした。

ラバウル出航の翌日、昼ごろ米軍機の機銃掃射きじゅうそうしゃの攻撃にあう

 ラバウルを出航した翌日のこと、たくさんの患者さん、つまり傷病しょうびょう兵を収容して日本へ帰路に向かっていた「アメリカ丸」で昼食の準備中の時でした。進か上空に爆音がしたかと思った途端、物凄い音響が甲板を貫いて、船体が急に傾きました。それは米軍のコンソリデーデットという攻撃機の機銃掃射きじゅうそうしゃでした。「空襲だー」と叫ぶ”医官殿いかんどの”の声に、避難命令が下り、皆救命胴衣をつけボ-トに移る用意をして待ちました。でも敵機はあとの三発を海中に落としただけで、姿を消しました。
 船の被害は甲板の一部とボート一隻だけで大したことはなくやれやれと思っていたら、今度は別の一機がマストすれすれに旋回飛行をしながらやってきましたが、やがて飛び去りました。私たちは従軍じゅうぐん看護婦でしたから、強い気持ちで死を覚悟していたので恐ろしいとも思いませんでした。四回ほど攻撃されましたが、幸い大事には至りませんでした。

「畜生!」と侮しがる傷病しょうびょう

病院船には何の防備もなく、抗戦もできません。身動きできない重症患者には「ちくしょう、ひどいことをしやがる、日本ももっと飛行機があったらなあ」とベットの中で悔し泣きをしている兵士もいました。私も女ながらに思わず無念の涙がこぼれました。
 やがて船はバタン島、コレヒドールを通過し無事フィリピンのマニラ港に到着。マニラでは四日間ほどいましたが、雨季だったのか毎日雨でした。患者を下ろし別の患者を収容して、さらに広島の司令部に戻ってきました。関西出身のの傷病しょうびょう兵が多く、いつも「エロウテ、エロウテ」と関西弁で言っていたことがおかしくてなりませんでした。「つらくて、苦しくて」という意味ですが、その時は変なことをいうものだなどと思っていました

病気で原町に戻り終戦を迎える

 ところが帰国した昭和十九年一月、私は検査で病気が見つかり、広島の陸軍病院に入院。まもなく原町の実家に帰って静養することになりました。新聞社の取材を受けたのは、その時のことで、昭和二十年八月十五日の終戦は自宅で迎えました。
 ほかの同僚看護婦は、さらに中国の天津てんしんの陸軍病院に配属になり、六ケ月後に召集解除になりますが、終戦まで一緒に勤務できなかったことは、私にとって「一生悔やまれること」です。

戦後は小中学校の養護教諭きょうゆ

 終戦後は水戸の日本赤十字病院に勤務し、院長のそばで看護婦長も務めました。三年後の昭和二十三年十二月一日から、今の原町区石神二小の養護教諭きょうゆとなり、以来五十七年三月の退職まで三十五年間、相馬地区の小中学校に勤務しました。
 戦争は絶対してはならない、するべきではない。いいところなど一つもありません。私も「九条の会」に入会します。