原水禁世界大会で広島へ
「すべての婦人運動は平和運動で完結する」という、婦人運動の先駆者櫛田フキさんの言葉に感銘をうけ、一九九八年八月六日の原水禁世界大会(広島)に参加しました。
蒸しかえるような広島の町並は、以前から原爆被災地の写真などで、私の脳裏に焼き付いていたあの焦土化した広島とは違って、ビルが建ち並び地方都市とは思えないほどのたくましさを感じました。
原爆供養塔に涙がとまらず
元安川の辺りには無名の墓碑がひっそりと立ち並び、原爆ドームをはじめ平和公園内の他の遺跡も、核兵器廃絶の重要性、緊急性を無言のうちに訴えているように胸にせまりました。とりわけ七万人の遺骨が眠る原爆供養塔の前では、涙がとまりませんでした。
数十万の犠牲者の声が蝉しぐれとなり、背中を押されるように、資料館に足を踏み入れました。当時の被爆状況、とりわけ子どもたちの焼けただれたケロイド状の惨状を見て、原爆の恐ろしさ悲惨さを身にしみて感じ、あの地獄を生き抜いた、被爆者の血と骨の叫びが聞こえるようでした
神奈川県の小学一年生だった私 友達が疎開していって淋しかった
その時私は、古びたセピア色の写真を見るように、同じ状況が脳裏をかすめました。
当時、私は小学校一年生、神奈川県の逗子市に住んでいましたので、直接戦禍に身をさらすことはありませんでした。でも何時もランドセルの上から防空頭巾と水筒を下げ、胸に住所と名前、血液型が書かれた白い布をつけて、集団で登下校をしていました。やがて疎開が始まり、友達が櫛の歯が抜けるようにいなくなるのが淋しかったことを覚えています。
父の仕事の都合で田舎に疎開することも出来ず、母が毎日のようにリュックを背負って買い出しにいって、求めてくる少量のお米や芋で、ひもじさや不安に耐えていました。
敗戦の年の三月十日、米軍による東京大空襲があり、下町は焦土と化した。私は記憶にありませんでしたが、東京の方の空が赤く染まり、飛行機が旋回し飛んでいったと、あとで知りました。
父の指の間から見た空襲後の東京 防火用水で亡くなっていた母子
明け方父が帰ってきて、父の実家があるこの原町へ疎開することになり、三月下旬の終業式も待たずにランドセルを背負って、着の身着の儘で汽車に乗るところまで歩きました。
東京の上野の近くは焼け野原となり、大勢の人々が為す術もなく空ろな目をして彷径う姿を、父は私に見せまいとして大きな手で私の目を覆うのですが、その指の間から見た光景は、今でも鮮明に記憶に残っています。子供を背負った母親が、防火用水桶の中に頭を入れて亡くなっている姿に、足がすくんで動けなかったことを覚えています。
疎開先の原町でも空襲にあう
ようやく汽車に乗れましたが、途中何度も空襲にあい汽車が止まり、そのつど線路の脇の草むらや林の中に身を潜め、何時間もかけて原ノ町駅に着きました。
高平の親戚の離れに疎開してからも、空襲で山に避難したり、防空壕に入って飛行機が過ぎ去るのを待ちました。
三人の子を残して姉は病死
八月十五日の終戦を期に、東京に住んでいた長姉も、空襲の時に幼い三人の子供を一人は背負い、残る二人の手を引いて、防空壕に入るときに胸を強く打ち、肋膜を患い、夫の実家に帰ってきました。でも甘えることもできず、病を隠してミシンを踏み、仕立てもので得たわずかなお金で子供を育てていました。ところが、復員して帰ってきた義兄と入れ違いに、北原の病院に隔離され、三人の子供に会うこともできずに、姉はこの世を去りました。
また、私の疎開先の親戚の息子さんも終戦間近に戦死の公報が入り、若いお嫁さんが幼い子供を抱きしめて、声を限りに泣いていた姿を今でも思い出します。
夢も幸せも人生をも奪ってしまう戦争
あれから六十四年、戦争によって女の夢も幸せも人生をも奪われた女性の数は測り知れません。今でも地球のどこかで紛争がおこり、テレビで報道されない日はありません。戦禍に逃げ惑う女性や子供たちの、悲しみと怒りに満ちた目を見る度に憤りを覚えます
平和の尊さを語り継いでいきたい
いつの世も、戦争で傷つくのは弱者であり、子供や女性です。次の世代に戦争の非惨さや、平和の尊さを語り継いでいくことが、大勢の戦争犠牲者の基に生きてきた私たち世代の責務ではないでしょうか。
原町市の「非核宣言」は一九八五年に、私たちや市民の運動で成立させたもので、婦人大会で「原町はたいしたもんだ」と会場で大きな拍手をされたこともあります。それが合併で消えてしまったというのはおかしな話で、怒っていました。