昭和 次第に戦争への道を

 大正十四年、南相馬市の旧石神村北長野に生まれました。その年、治安維持法公布、普通選挙法案議会通過。世界恐慌や東北地方の冷害など、大正ロマンの影は薄く、昭和六年満州事変、十一年二・二六事件、十二年支那事変しなじへんと戦線を拡大。国家総動員法公布で政党解党。大政翼賛会たいせいよくさんかいは文化思想団体の政治活動を禁止。
 昭和十五年原町陸軍飛行場建設が着工になり、私も相馬農蚕のうさん学校(相馬農業高校)生徒として奉仕作業に従事。畑の土をトロッコに積んで運び平坦地にする作業を一年ぐらい行いました。
 十六年東条英機陸相が「戦陣訓」を通達、そして太平洋戦争布告。
 昭和十七年、中等学校は三月卒業を繰上げ十二月となって、外地へ就職する者もあった。私もこの時、相馬農蚕のうさん学校を卒業しました。

広島の海軍潜水学校に入校

 昭和十九年五月、軍国少年の使命感からか、徴兵検査を待たずに兵役志願する者が多くなり、小生も一年早く海軍機関兵として広島県大竹の海軍潜水学校に入校した。大竹は広島県の西端、厳島いつくしまを目前にする軍事の町でした。
 そこで「空気の味と太陽の有り難さ」を猛訓練で実体験することとなった。

戦艦「長門」の整備要員として

 昭和十九年十月、レイテ沖海戦に出撃するため、小沢艦隊が瀬戸内海の柱島はしらじまに集結した。航空母艦「瑞鶴ずいかく」、戦艦「伊勢」「日向ひゅうが」などの雄姿が今もまぶたに浮かぶ。
 しかしフィリピン・レイテ沖海戦は世界海戦史に残る惨敗に終わり、十二月戦艦「長門」が軽傷で母港横須賀に帰港した。私はその整備要員として三ヵ月間乗艦した。

「ポツダム宣言」予告ビラ

 二十年五月、特殊潜航艇せんこうてい整備要員として神奈川県の三浦半島の大楠おおくす海軍機関学校に入校した。八月、B29からポツダム宣言の予告ビラが三浦半島上空に撒かれた。
 「軍人は武装解除して、皆故郷に帰って職場に復帰できる。」と書かれていたが、上官は慌てて回収させていた。またその頃、海軍伝統だった「根棒ねぼう」が禁止となった。上官はもう日本の敗戦を知っていたのか。
 八月二十五日、アメリカ艦隊の相模湾入港を前に退去、私も原町に復員となった。
 そして、日本海軍のシンボルだったあの戦艦「長門」は二十一年七月ビキニで原爆実験艦となって沈められた。
 私の義父も海軍に応召おうしょうしマリアナなどで戦ったが、「負ける戦ほど残酷なものはない」というのが口ぐせでした。