直接戦争の体験を知らない私は、昭和一十八年十二月七日生まれで母親の胎内と、生まれてから一年有余の期間が、戦争の実体験となります。すでに私の父 荒木茂雄は出征していて、仙台の駐屯地に居たという話を聞きました。
私の部落は旧大甕村の北原部落で当時は成人した男は赤紙でことごとく出征していました。ですから農業も女手だけで行っていましたが、出征するまでの男が農作業の手伝いをして、やっとしのいでいたとのことでした。
戦地に向かう時『家族を頼む』の紙切れを汽車の窓から投げた父
私が生まれて百日目に、父は仙台の駐屯地から汽車にで、乗せられて戦地に向かうのですが、その間、母親と姉、私と親子四人での対面は一度だけで、私はまだ生まれて間もないので分からなかったのですが、父は三歳ちょっとの姉に泣きすがられて、泣く泣く子供たちを頼むと母親に託したそうです。
いよいよ父が仙台から戦地に向かう日が来て、父は常磐線で我が北原の部落を通過するとき、汽車の窓からマッチ箱に「家族を頼む」と書いた紙切れを入れて、大滝さんの田んぼに投げ入れて行ったそうです。その時の父の心の中は大変な苦痛であったと思います。とてもとても「天皇陛下万歳」という心にはとうていならなかったと思います。
父はフィリピンのミンダナオ島で戦死
片道切符の船に乗せられて、父の向かった先は、フィリピンのミンダナオ島でした。行進の途中、崖縁のところで昼ご飯をとっているさなかに、米軍の機銃掃射を受けて全滅したと報告されました。戦没日はミンダナオ島コタバト州で、昭和二十年四月二十九日です。
が、そんな中でも何人か生きて帰ってきた人がいて、今から十四年前に当時の状況を報告するために、訪ねてきてくれた方がおりました。自分も年をとって先も長くないので、今のうちに戦友のところを訪ねているのだ。戦後長い間、自分だけが生き残ったことに負い目を感じ、どんなにか辛い生活を送ってきたのであろうことを思うと、死んでも生きても地獄だと思いました。
父のいない貧しい家で頑張った母
その後私たち家族三人は、父が戦死したため、一人一反歩の土地と、バラックの掘っ立て小屋を建ててもらい、分家に出されましたが、箸すらなく屋敷の木を削って箸を作り、家はスンカワ(杉の皮)の屋根だったので雨漏りがひどく家中にバケツやポロなどを並べたのを覚えています。粘土で作った壁はすぐはがれてしまい、母は粘土に「押切り」で切った藁を混ぜてこねて、篠竹で編んだ壁に塗り込んで補修しました。小さい私が材料を差し出す仕事を手伝った事は、今でもハッキリと目に浮かんできます。
誰もいない家の前で大泣きしていた私
何もないので母は、手間取り(よその農家の手伝い)や自分の家の野良仕事に明け暮れ、寝るのがやっとでした。小さい私は夕方遊びから帰って来ると、誰もいない家の前で決まって大泣きしてたので近所の人たちから夕方になると、「そろそろサイレンが鳴るぞ」と言われていたそうです。
米粒の少ない『かてめし』の毎日でした
とれたお米は供出するので、ジャガイモ、サツマイモ、大根の葉っぱ、麦などをご飯に入れた「糅飯」で、どこに米粒があるのか分からないほどのご飯が常でした。家で食べるそのわずかばかりの米も秋の収穫期の頃には底をついて、本家や母の実家に借りに行かされたこともしばしばでした。私が学校に行くようになると、姉と私の学費を納めるのにお金がかかり、生活は益々厳しくなりました。
美味しかったおじさんのお弁当
そんな時期、赤い自転車に乗ったおじさんが、家の廊下で食べるようになった。その弁当を見ると、とてもおいしそうな卵焼き、煮豆など、私たちにはとても食べられないものばかり。私はちゃっかりとおじさんの隣に座って弁当を見つめていると、「食べっか、ほら」と、とても美味しい煮豆を手のひらにのっけてくれました。その味は今でも忘れられない。その後、赤い自転車のおじさんば私のお父さんになりました。
学校に行くようになっても、いっこうに生活は良くならない。学ランで通う生徒を横目で見ながら、五年生まで「しきし」のあたったゴム紐の「モンペ」をはいて、同級生にからかわれながら学校に通った悔しい経験は忘れられません。全体的に我々の年齢層は、片親が多かったし、食料にも困った時代でした。
憲法九条は守らなければならない
いつの時代でも、戦争で犠牲になるのは一般の人々で、弱い人ほど被害は大きい。それもこれも、この世に戦争が無ければもっと平和にのんびり楽しく生活出来るのに。
今政府は、平和憲法を変えて再び来た道を歩もうと、大きく舵を切ろうとしています。世界中を巻き込んだ苦い戦争経験を繰り返さないためにも是非とも憲法九条は守らなければなりません