私の戦争体験
広島で二次、長崎で直接被爆し二度の被爆体験をした
九条ブログはらまちNo.104(2009年7月16日)
私は大正九年、相馬市に生れました。私の場合は、広島と長崎の両方の原爆を体験した、いわゆる二重被爆者です。
軍隊検査は甲種合格 横須賀海兵団で激戦に参加
私は若い頃は、プレス工として東京で働いていました、現在と違い体はがっちりした健康体でしたから、軍隊検査も甲種合格で召集され、筑波海軍航空隊に入りました。
軍艦隼鷹」に乗り込み、昭和十六年一月からは横須賀海兵一団に入り、海軍整備兵として、シンガポール、マニラ、トラック、アリューシャンなどに出向きました。いずれも激戦地で、特に「ア号作戦」として有名ですが、第一次、二次、三次の南太平洋の激戦に参加しましたが、よく海の藻屑と消えずに生還できたのが不思議なくらいです。
最後は航空母艦とともに九州の佐世保付近の港に逃げ込み、敵機の目をごまかすため、その母艦を木の枝なんかで擬装して隠すようなこともしました。
八月六日、軍の命令で兵器を受け取りに長崎へ出発
ところが敗戦も間近な昭和二十年八月、私は特殊部隊に編入されていて、軍の命令を受けました。その命令とは、私の所属する横須賀海軍工作学校から、長崎の海軍武官府へ秘密兵器部品を受け取りに行け、という命令でした。
八月六日広島に原爆が投下された日ですが、M技術中尉を上官に、私たちは四人で横須賀を出発しました。
原爆投下の翌日広島を歩いて通過
翌七日、私たちを乗せた汽車は山陽本線の広島付近まで行ったところでストップしました。広島は前日の原爆投下で壊滅状態でした。
今でこそ原爆とわかりますが、その時はすごい爆弾だ、と考えるだけでした。街の方々が燃えていて、焼夷弾にしては破壊力がすごいし、単なる爆弾にしては火事が随分起きていて不思議に感じました。ともかく、軍の命令で派遣されていた私たちは引き返すこともできず、汽車を降りて徒歩で広島の街を通らなければなりませんでした。
広島駅の時刻表の黒い部分だけが焼けていた
広島城など何にもなくなっていましたし、道路には人々がまだピクピクと動くだけの状態でいたり、人も馬も死体となって一緒にあちこちにゴロゴロしていました。広島駅に立ち寄ったのですが、時刻表の黒い文字のところが焼けて、白い部分がそのまま残っていたことを覚えています。
放射能に汚染された広島の街を、そんなふうに原爆投下の翌日の八月七日に歩いたのですから、これが私の第一回目の被爆体験です。その時にもう私は被爆してしまっていたんですね。
八月九日の朝、長崎にようやく到着
広島の西の方の駅から再び山陽本線に乗って、途中もう一度汽車を降りてトラックで運ばれ、また汽車に乗り込み、長崎には九日の朝に着きました。長崎駅からそれほど離れていない旅館に宿をとりました。着いたばかりで旅館の名前なども覚えていないし、町名などもわかりません。覚えているのは、旅館の窓から見えた火の見櫓とガスタンクぐらいです。被爆地が明確でないことが、戦後に諸手当を申請する際に書類不備でつっ返される理由になってしまいますが、でも知らないものは知らないのです。
十一時二分、長崎で直接被爆する
九日朝に長崎に着いた私たちはその旅館に入って、それまで食べるものも食べずにいたので、まず食事を頼んで待っていたその時、原爆が投下されました。十一時二分ですか。一瞬夕焼けのような光、それは金色でも赤色でもないような光を感じ、すぐにものすごい音がして、それっきり私は気を失ってしまいました。よくピカドンといいますが、そんな感じです。
気がつけば諫早の病院に
気がついた時は、佐世保海軍病院諫早分院の中にいました。右の頬にガラス片が突き刺さり手術をして抜きました。その傷はこのとおり大きく残っています。私は軍人でしたから軍の病院に収容され治療を受けることができましたが、私以外のけがや火傷をしていても、道端にほっぽりだされていた人も多かったはずです。
諫早分院から看護婦付きで佐世保海軍病院へ車で移され、そこに約一ヶ月いて、汽車で横須賀に運ばれ、相馬へは九月半ばに帰ることができました。
広島で二次、長崎で直接被爆し二度の被爆体験をした - 顔も変形し、人目を避けての生活 -
九条ブログはらまちNo.106(2009年8月9日)
被爆の影響で次第に体に異変が
原爆病という病気はないと思います。俗に言うそれは放射能が体内の白血球を破壊するため、抵抗力が弱まって他の病気にかかりやすくなるのです。私の場合翌年の二十一年頃から次第に全身がだるくなり、坐っていても横になってもだるく、何をする気にもなれません。被爆者はよく「ブラブラ病」と呼ばれて、白い眼で見られていましたが、本当にそうなんです。
また胃腸に変調をきたし痛みもあり食欲も減退して、半年ほど相馬公立病院に入院したこともあります。それまで滅多にひかなかった風邪も度々ひくようになりました。
被爆前の顔とは全然違った人相に
また先程もお話しましたが、被爆の時、顔の右半分がやられ、頬のガラス片の跡も残り、その手術の後遺症だと思いますが、右の耳の耳鳴りがひどく、右の眼は視力が衰えて常に涙がたまるようになり、また引きつった唇からは涎が絶えず流れるようになりました。被爆前の私の顔とは全然違った人相になってしまい、昼間はなるべく外出しないようにし、性格も変わってしまいました。
鮮魚の行商で生計をたてるが
昭和二十三年ごろから徐々に体も快方に向かったので職をさがしました。以前の職のプレス工ヘの復帰は、七年以上のブランクがあるし体も弱いし、とてもかないませんでした。それで鮮魚の行商や小型漁船の漁で生計をたてました。
しかし、体は元通りになったわけではなく、二日働いては一日休むという毎日でした。子供四人を育てなければなりませんから、苦労話はいくらでもあり語り尽くせません。
大手術後 毎日通院するようになる
昨年昭和五十七年一月には、変形性脊髄症で大手術をしました。右手がしびれて痛み、夜も眠れないほどでした。被爆した時に投げ出されたためか、ちょうどむち打ちのような症状でした。手術は右下腹の軟骨を切り取り、れを頸椎に移植し、四月に退院しました。
ところが、退院する頃から今度は、腰が痛み、両足もつっぱってしびれがひどいのです。ずっと病院通いで仕事にもつけず困ってしまいます。毎日通院で治療には午前中いっぱいかかり、今日も行ってきました。
悲惨な体験は私だけでたくさん 戦争は二度とあってはいけない
戦後三十七年経った今でも、こんなふうに原爆の傷跡は消えませんし、これからも生活や治療でこの傷を背負って生きていかなければなりませんし、全く不安です。こんな悲惨な体験は、もう私だけでたくさんです。こんな戦争は二度とあってはいけない、繰り返してはいけないと思います。
とにかく原爆なんていうものは、みじめなもんですよ。残酷そのものです。諫早の病院では、今まで隣のベットで元気に話していた人が、急に死んでいくんですよ。本当にショックでした。そんなことを私は目の前で幾らも見てきて、自分もこんな傷を負ってしまい、戦争はもうたくさんです。
長崎の被爆だけがようやく認定される
私が被爆者としてもらっている手当についても大変不満です。広島で二次被爆、長崎では直接被爆と二重に被爆していても、長崎の場合だけがようやくのことで認定をうけられました。
認定されるまで二、三十ページの申請書を作成するのですが、詳しく私にはとても書けないので、いろんな人にお世話になりました。
それに、お金の話で申し訳ありませんが、私がいただいているのは健康管理手当という種類で、月額二万四千円。それも病気の間だけの三年間内です。仕事もできないで月二万四千円で、今どき何が買えますか。軍の命令で被爆して苦労して、馬鹿をみただけと腹が立ちます。
海軍だから軍艦に乗っている期間だけが恩給の対象で、これも少額です。正直言って本当にもっと優遇してもらわないとどうしようもありません。
しっかり生きていかなければ・・・
年二回の定期検診は受けていますし、何か相談があれば原町の保健所に行き係のYさんに話します。Yさんは本当に親切に説明してくれたり、手続きなどもよくやってくださって、心から感謝しています。
とにかく、そんなことを言っても、娘三人、息子一人もみんな結婚して、孫も四人になり、今では女房と二人暮らしです。
こんな体で本当にあの時死んだ方が良かったのではと、以前は考えたこともありましたが、しっかり生きていかなければと思います。