二十二才のの青春の墳
芳紀将に二十二才。私にとっては青春の真只中にありました。昭和一八年、母校を半年繰り上げ卒業で「子等行くか九月の二十三日かな」と恩師に送られ、中通りの小さな女学校に就職、一年五ヵ月勤め、漸く二十一年の四月、原町高等女学校への転任。相馬商業学校の生徒と小学校の鈴木小松先生が原町紡績工場で機銃掃射で亡くなったという話も惨ましく伝えられている頃でした。
郡山の工場や原町紡績工場にも動員
当時、原女では四年生は郡山の日東紡績富久山工場へ学徒動員、三年生が原紡へ動員され、遠距離の生徒は学校の西二階に宿泊して原紡へ通って居りました。一、二年生は農繁期には田植え、稲刈りにと駆り出され、授業は合間を縫ってといった有様でした。四月の郡山大空襲では富久山工場が爆撃され、原女の生徒も数名生き埋めになり、確とした情報も入らぬまま、学校は右往左往といった状態でした。幸い死者は出ませんでしたが、戦いは日々暗雲が漂って参ったのです。
一、二年生のお務めにはこんなこともありました。十時ごろに原町役場から電話がかかって来るのです。「特攻隊が出発するので見送るように」との伝達です。授業を即刻やめて、以前野馬追城のあった御本陣山に駆け登り、原町飛行場から飛び立つ特攻機に手を振るのです。機は私達の上を数回旋回して二度と戻る事のない飛行場を後にして、南の空へ消えて行きました。
昭和二十年八月十日、原町女学校の日直の日に大空襲に遭遇
さて八月八、九、十の三日の原町大空襲の話になるのですが、十日、私と事務員の塩谷英子さんが日直でした。職員、生徒は休み、斎藤清三校長と網田陸教頭は出勤して居りました。
朝から真夏の太陽はジリジリと照りつけて居りました。作業服にズボン、綿の入った防空頭巾、その上から手拭いで口鼻を蔽うべくきっしり縛って居りました。手には勿論手袋、完全武装です。
空奥警報が鳴り響きます。直ちに防空壕へ直行です。爆弾が落ちる度にグラグラと体が持ち上げられ生きた心地もしませんでした。三十分程すると一旦、グラマン戦闘機は去ります。しかし渋佐沖にいた艦載機からの波状攻撃ですから一時間もすると又やって来るのです。これが五回繰り返されました。
原女が爆撃されたそうだからと見に来たお爺さんが、途中で機銃掃射を受け、腕を一本失ったと聞きました。校庭には十二発爆弾が落ちましたが、不思議と校舎は無事でした。硝子は木端微塵に砕け散乱しましたが・・・
爆裂の瞬間”これで終わりだ”と
さてこの十二発目が曲者でした。牛後三時頃、最後の攻撃でした。防空壕に至近弾が落ちたのです。物凄い爆裂音と爆風、防空頭巾も壕の中に入れていた腰掛けも吹っ飛びました。生き埋めに備えての熊手を握っていた手も空しく、瞬間、これで終わりだと思ったのです。防空壕の一方は完全にどどっと崩れましたから。でも一方に明るみが覗いていたのです。将に九死に一生を得た思いでした。ー屯爆弾とか大きな穴には地下水がゴボゴボと湧き出て居りました。
原ノ町駅近くの家も大被害
家に帰れば機銃掃射の弾丸が屋根を突き抜けて畳や蒲団に突き刺さって居りました。駅に近い為、庭には線路の枕木が飛んで来て突き刺さって居りました。駅の線路は飴の様に曲がって架線橋にからまって居る惨状でした。
平家の都落ちも斯くや・・・
私はその夜、父の実家の信田沢へと向かったのですが、今の仲町の牛越公道もリヤカーや荷車に荷をつけ、大きな風呂敷包みを背負って避難する人々でごった返して居りました。南の空には原紡が炎々と燃え盛り、平家の都落ちも「斯くや・・・」と思わせるものがございました。そして五日後、戦いは終わりました。