私は昭和八年、長崎市中小島町なかこしまちょうで二男六女の二男として生まれ、今年七五歳です。中小島町なかこしまちょうというのは、長崎駅からずっと南の方で、爆心地からは四キロメートル以上離れています。家は商売をしていて、戦時中は食糧とか衣類の「配給所」でした。
 八月九日当日、父は三菱造船所の技師で出勤していましたし、兄は十七、八歳で学徒動員というか徴用ちょうようで、長崎の川南かわなみ造船所で働いていました。

昭和二十年八月九日、長崎市 小学五年生の私は自宅で被爆

長崎に原爆が落とされた八月九日、空襲警報が発令され、やがて警戒警報に変わってみんなが安心していた時、B29がやってきて原爆を投下したと記憶しています。
 私は小学五年生で、その時は暑くて家でパンツ一枚でマンガ本を読んでいました。爆音が聞こえたので家の庭に出てみると、B29が高いところを飛んでいて、十五センチぐらいに見えました。ところが、そのB29から、キラキラというか、ピラピラというか、とにかく何か光ってゆっくりと落ちてきました。それが実はパラシュートをつけた原子爆弾だったんですね。
 それまで何度もアメリカの飛行機がビラをまいていましたので、また「日本は負けた」とか、「避難せよ」とかを印刷したビラだと思っていました。

「ピカドン」という感じで突然の光、そして爆風 はだしのまま裏山へ逃げた

 それから十分か十五分たって、私も目をそらして庭にいる時突然ピカッとすごい光を感じました。焼夷弾しょういだんが落ちたな、隣あたりか、かなり近いところに落ちたな、大丈夫か、などと考えていましたから、光の二、三分あとだと思います。
 今度はものすごい爆風です。木っ端とか、塀の破片とか、屋根の瓦などが吹き飛んできましたが、幸い私は塀に囲まれていてけがはしませんでした。家の中にいたら、箪笥たんすの上のものがみな落ちたりして危なかったと思います。
 それからはだしのまま、家の裏に住んでいたおばあさんのところに跳んでいき、姉と妹と五人で家の裏山のお墓のところに避難しました。

大きなきのこ雲がモクモクと町のあちこちから火の手が

 長崎駅の北の方にはモクモクと「きのこ雲」ができていました。火薬の大爆発か、工場の薬品でも大爆発したのかと思われました。山の上だったので、町のあちこちから火の手があがっているのがよく見えました。「きのこ雲」はだんだん大きくなって、なかなか消えないし、びっくりしましたね。

「アメリカ兵が上陸してくるかも」

 夕方から夜になっても、三人で裏山のお墓のところで寝たりしていたのですが、自警団の人がやってきて、「夜にアメリカ兵が上陸してくるかも知れん」と言うので、夜の十一時頃だったでしょうか、親戚を頼って、三十キロぐらい離れた諫早いさはやに避難することになりました。一晩中歩き続けましたが、途中でおにぎりの炊き出しをもらったりしました。
 翌十日に諫早いさはやに着きましたがすぐに電々公社に勤めている人に連れられて、長崎の家に引き返しました。幸い、父や兄も無事で家に帰ってきていてホッとしました。アメリカ兵も来ないだろうと、また家族一緒に家で生活するようになりました。

リヤカーを引いて爆心地付近へ

 それから一週間くらい、親戚や近所の人で爆心地の方で行方不明の人がいたので、父や兄や近所の人と一緒にリヤカーを引いて、爆心地近くに出かけて行きました。その頃、リヤカーを持っていたのは「配給所」だった私の家ぐらいで、そんなことを頼まれたんだと思います。爆心地の山里やまざと町を中心に、やけどをした人、死んだ人、道に倒れている人、防空壕の中、働いていた所、避難先、川の中の死体まで捜して歩きました。

二十体ぐらいの死体を焼く

 目的の人をようやく見つけ出し、リヤカーで運び、全部で二十体ぐらいを焼きました。トタンの上に死体を並べ、倒れた家から木を集め、火をつけて、完全に骨になるまで十五時間ぐらいかかったと思います。
 小学五年生でそんなことを手伝いましたが、こわいとも思わなかった。いつも家には父も兄もおらず、家の中で男子は私ひとりだったので期待もされ、責任感もあったし、無我夢中だったのかもしれません。
 今初めて話すことで、忘れられないのは、やけどやケガをした人々が「水を飲ませてくれ、水をください」と叫んで、私の足に抱きついて離そうとしない。水をやると死ぬぞと厳禁でしたが、私はある人に水筒の水筒の水を飲ませると、本当にその場で亡くなってしまいました。今でも心に引っかかっていることですが、でも絶対助からない人でしたから、いいことだったかとも考えています。

健康だったのに突然・・・

 その後、長崎の高校を卒業し東京に就職。健康で、がむしゃらに仕事をして、原爆や放射能の後遺症なんか全く考えもしませんでした。
 ところが、二十年たった昭和四十年頃から、どうも体の調子がおかしい。病気にかかりやすく直りにくいし、特に風邪をすぐひいて寝込むことが多くなりました。これはおかしいな、働き過ぎかと思いましたが、長崎の兄姉けいしたちにもすすめられて、昭和四十五年十二月に初めて「被爆者健康手帳」を交付してもらいました。一番重度の「一号認定」です。
 昭和四十七、八年ごろからは骨の関節がおかしくなり、ちょっと力仕事をすると手足がしびれたりして、ごはん茶碗も持てないほどです。特に足や膝の関節が弱くなって、もう現在では正座もできません。やはり投下直後の長崎市内を毎日歩いた時に、被爆したのでしょう。

病弱で仕事にもつけずに

 昭和五十年に仕事の関係で原町にきましたが、高血圧、真性糖尿病、両変形性膝関節症、頸椎不全損傷けいついふぜんそんしょう、軽度の脳梗塞などの病気をかかえて寝込むことも多く、右足は完全に変形しちんばになっています。職にもつけず自殺を考えたこともありました。どうせ被爆者だからと大熊町おおくままちの原発で働こうとしましたが断られました。まあ、なんとか女房に働いてもらい、私は家の中の仕事をしてここまでやってきました。
 子供は男女の二人で、生まれた時からずっと、私の被爆の影響がないかといつも本当に心配していました。現在は結婚してホッとしています。

手術の時、きのこ雲の幻覚が

 平成一八年二月に大動脈のバイパス手術をした真っ昼間、麻酔のせいだったのか、病室の窓の外に風船が見えそれが大きくなり、またきのこ雲が襲ってくる幻覚症状が表れて、ぞっとしました。また毎年八月になると体の具合が悪くなり、寝込んだりします。今でも飛行機やヘリコプターの爆音で、B29を思い出してこわい。原爆がトラウマになってます。
 今度戦争が起きればすべては終わりで、生きてはおれない。平和はいいなあと思います。子供にも戦争なんかに行くんじやないよと言ってきました。お話を聞いてくれてありがとうございます。またお出で下さい。