昭和十八年生まれの私にとってあの戦争は、爆弾や空襲といった思い出より、ひたすら空腹に耐えた厳しい日常生活の思い出といえます。

三歳半の時 樺太からふとから引き揚げて

昭和二十年の終戦を樺太からふとで迎えて以来二年間私たち家族は樺太からふとでロシア人に混じって生活していました。
 昭和二十二年、樺太からふとの南端の港町「大泊町おおどまりちょう」から引揚げ船に乗った時、私は三歳半でした。その時の日本の現実は「食糧難続行中」で、その後の生活も、「飢え」一色と言っても過言ではなかったと思います。
 引き揚げた原町では、知人の家の物置の、のきの片隅でスタートした生活は、まさに「極貧」そのもの。父が教員としていただくわずかばかりの給料では、十分な食べ物が賄えるはずもありませんでした。

数えるほどの米粒の「芋飯」

 イモの間の米粒を数えるような「芋飯」が普通で、どうやって米粒をきくえるか苦労したものです。いまだに大根葉おねばから目をそむけてしまうのは、何にでも大根葉おねばを入れて量を増やして食べた(まずい!)歓迎できない思い出が、苦く心に染み付いているからだと確信しています。

友達のお婆さんからいだだいた忘れられないトーモロコシの味

 そんな中、初めて味わった天にも昇るような美味!!
 近所の子どもと遊んでいて、その家のお婆さんが湯がいてくれたトーモロコシ。ろくに実の入っていない一本だったのに、一口ガブリと食いついたその時の感動は、毎日空腹に悩まされていた私にとって、一生忘れられない味になってしまいました。
 「うま~い!!」と目がテン!!こんな美味があったんだという感動で、アッという間にガツガツと一本を食べ尽くし、よほど物欲しそうな顔をしていたのでしょう。お婆さんは孫たちの量が減ってしまうことに不満を抱えながら、仕方なさそうに鍋の底から、おそらくは最も貧弱そうなのを探し出して分けてくれたのです。
 たとえ渋々であっても、たとえ貧弱であっても、当時おやつとして貴重だったトーキビを、孫の遊び仲間の新顔に分け与えてくれたこと、子ども心に深く深く感謝したことを忘れることができません。

「もったいない」捨てられる給食

 やがて成人し、教職について感じました。
 毎日残され捨てられていく給食の量の多いこと!「もったいないなあ」と渋い顔をするのは、私と同年齢の先生方。高度経済成長以降に育ってきた若い先生方は、やはり何の思いもないようでした。誰の罪でもありません。えた経験の有無なのでしょう。

自作のトウモロコシに涙ぐむ

 私が畑で野菜を作り始めて、十五年になります。
 あの時の思いが心を揺すり、始めて種を蒔いたのがトウモロコシ。そして初めての自作のトーキビを口にした時、飢えに苦しんだあの頃の日々、あまりの美味しさにビックリした自分、仕方なさそうにもう一本を渡してくれたお婆さんの様子が、懐かしさ半分、物悲ものがなしさ半分で胸に迫り、涙ぐんでしまいました。
 しかしこの数年、私の思いはかなえられません。作っても作っても、ハクビシンにやられてしまうようになりました。ハクビシンはトーキビだけでなく、私の飢餓きが体験、感激、感謝の思い出まで食べてしまいます。許せません!