終戦の年 女学校に入学
NHKテレビの戦後六十年企画の番組映像から聞こえた日本本土空襲の爆音が、あの日のことを思い出させた。
中村町(現在相馬市)の県立相馬女学校に入学したばかりの昭和二十年四月だった。一、二年生は少しばかりの授業と、出征兵士宅への勤労奉仕で農作業の日々だった。上級生は日の丸鉢巻も固く、学校工場となっていた校舎の二階教室で、陸軍の被服縫製作業のミシンを終日踏んでいた。
「機銃掃射で狙われる!」
ある日、低学年の生徒は離任の先生を見送るため、駅はずれの道に並んで、去りゆく列車に手を振っていた。
その直後のことである。警戒警報のサイレンが鳴り、太平洋上から轟音が近づきB29が侵入してきた。全員逃れる術もなく田圃の畦に伏せた。不気味な爆音を背中で聞きながら「機銃掃射で狙われる!」と覚悟した。誰ひとり声も発せず、まるで金縛りにあったよう。恐ろしさで胸が痛くなった。
何機の編隊だったか定かではないが、郡山空襲に向かうため中村上空を通過した爆撃機だったという。爆音が遠ざかって、「皆無事だった!」と我に返り、腑抜けたような安堵感と、その時の恐怖はいまだに心に沁み込んでいる。
大都会の空襲とは比較にならない、小さな町の小さな戦争体験のひとつである。
以前、ある小冊子に載せた戦争体験の小文である。
昭和二十年四月、女学生になった私の服装は、籤を引き当ててやっと買うことができたヘチマ衿の上着と祖母の着物を仕立て直した絣のモンペに下駄履きだった。
寄宿舎での乏しかった食事 忘れることのできない鯖の味
通学距離が長かったため寄宿舎に入寮。食事は炊事当番があり寮生が作った。茄でた丸大豆にご飯粒をまぶした様な主食。野生のなずなをおひたしにしたこともあった。そんな乏しい食事のなかで唯一忘れることのできないとびきりの美味の記憶は原釜で揚がった鯖の煮付けだった。
寮の夜は灯火管制のため、電灯を黒い布で覆った薄暗い明かりと、一つの火鉢に同室の四人が煖をとり、教科書のページを繰ったものだった。
仙台空襲で北の夜空が赤く滲んだ
そんな夜、警戒警報が発令され、防空頭巾に非常袋を携行し、防空壕で一夜を明かした、夜明け、北の空が赤く滲んでいるのに気付き、何とも言えぬ不安にかられたのを覚えている。仙台が空襲を受け、炎上の夜空の明かりのようであった。
不利な戦況は庶民に伝わるには間があり、地方の小さな戦禍など報道も詳しくはなかった。おぼろ気な敗色は感じながらも、「神風」を信じ込まされていた小国民だったのである。
戦後 学校も混乱の極みだった
昭和二十年八月十五日終戦。
教科書の内容が大幅に変わり、新聞紙状のザラ紙に刷られた俄作りの紙面を切り揃え、縫い糸で綴じ、教科書として使ったことも思い出される。
まさに学校も混乱の極みだった。その後、六・三・三制が実施され、私達は併設中学の三年に編入となった。
高校卒業までの六年間、学舎を共にした同期生はいま喜寿を過ぎた。
戦後六十五年、遠い日の苦い思い出を語り合う機会も少なくなった此の頃だが、戦時中のあの毎日の言いようのない不安や恐怖生活の逼迫など再び繰り返されてはならぬこととの思いは深い。
実むらさき過去に戦さの喜寿を生く 喜代子