群馬県前橋市で空襲を体験
私は昭和十五年生まれですから、終戦の年の時は四歳でした。父親が日本通運に勤め、群馬県の前橋市に住んでいて、そこで私は終戦の年の昭和二十年八月、空襲の恐怖の体験をしました。
『空襲ケイホー!』と叫びながら、隣組の組長がメガホンを持って走ります。サイレンがウーウーと鳴り、私はゲートルをパーッと巻いて、防空壕に必死で走っていって、恐ろしくて震えていたことをはっきり覚えています。
グラマンの機銃掃射で・・・
耳の聞こえない近くのお婆さんが道路を歩いていたらしいんですが、それを狙って米軍のグラマンが急降下して、機銃掃射をババババ・・・と。そのお婆さんの頭や足は吹っ飛んでバラバラになったそうです。
私はみんなのあとについて見に行こうとしたら、もの凄く母に叱られたことを覚えています。私の小さいときのことや戦争のことなども、どうしても母との関わりでいろいろと思い出されます。
空襲予告のビラを見て鹿島町に引っ越す
その前橋に、「あと二、三日後に空襲する」というビラが空から撒かれたらしいんです。でも、隣組長や隣組のえらい人達は「これは偽ビラだから信じちゃダメだ」と。でも、「いやこれは本当だ」というわけで、急いで母の実家の鹿島町に引っ越してきて、その翌日、前橋は空襲で全滅したそうです。
正しかった母の判断
また、十歳上の兄が特攻隊に志願しようとした時、母は必至になって止めたと、あとで聞きましたし、前橋から鹿島町に引っ越したこともそうですが、やはり母の判断が今考えても、問違いなかったとつくづく思います。世界文学の『風と共に去りぬ』や『大地』『怒りの葡萄』などを数十回も愛読していた母でしたが、母の子供を守る本能がそうさせたのでしょうか。”女は強し”です。
家は貧乏でしたが、小学三年生の頃だったか、時々縁側で父の尺八に合わせて、母が琴を弾いていたのを、子供心にいいもんだなあと聞いたりしていました。
憲法九条は世界遠産です
憲法九条は世界に誇るべき世界遺産で、究極のルールです。日本は無謀な戦争を仕掛けた。馬鹿さ加減というか、無知というか、なにしろ、過去の負の遺産を忘れてはいけないと思う。そして現在も、アメリカだけに追随し改憲するなど、極めて危険です。自主防衛などというのは、世界中でそんなへんてこな理屈は認めません。日本はまた戦争を始める準備をしていると受けとられてしまいます。しかも自衛隊の予算も世界で上位で、これはとても怖いことです
本当に非武装で中立を守っていたら、北朝鮮もアルカイダも攻めてきませんよ。国民の大半は、憲法九条は大事にしようと思っています。日米安保条約が一番のガンだと思います。
普通の善良な人間を殺人者に変えてしまう戦争
私は、人間が一番してはいけないこと、一番悪いことは、人間が人間を殺すことだと思います。国家間で殺人行為を繰り返すことはもっと悪い。戦争はどんな善良な人間も、ジェントルマンも、どんな心優しい人間をも、殺人者に変えてしまう。
踊らされないように
集団で戦う論理っていうのもいけないことだと思う。それを国家の名の下に、正義の名の下に、宗教の名の下に、天皇の名の下に、そういう美名に隠れて、一部の人間があおっている。国民は絶対踊らされてはならない。そういう一番してはならないことを教えるのが教育ではないか。
一握りの為政者が神とか国家とかを利用して煽って、戦争を起こしている。それに国民はワーッと流されてしまう。そこを流されないように、世の中の雰囲気に流されないようにするのが、ポリシーではないでしょうか。
小さな時から絵を描くのが好きでした
私は小さい時から絵を描くことが好きで得意でした。自分で糸で縫ってスケッチブックを手作りし、飛行機やジープの絵を描いたりしていました。
小学五年生の時、初めて母に油絵の絵の具を買ってもらいましたが、補充する絵の具が高価で、母に申し訳ないし、とても厚塗りはできませんでした。
子供の頃の好みがそのまま自然に美術の教師へと向かわせたのでしょう。退職後もずっと絵を描ける幸せを味わっています。さて、あと何年?画けるものやら・・・
いつか「戦争のための・平和をなくす絵本」を
ピカソは鳩を平和のシンボルとして描き、「ゲルニカ」で戦争の醜さを訴えた。ビートルズは世界の平和や、宗教がなくなれば戦争もなくなると歌った。まったくその通りだと思います。
私は絵描きとして平和のために何ができるかを考えています。いつか「戦争をなくす絵本」・・・、そんな目の覚めるような絵本を創ってみたいなァと頭の片隅にはあるんです。