夫が撮影した写真がきっかけで

 昨年、朝日新聞出版から『秘蔵写真が語る戦争』という一冊の本が発行された。その中に海軍軍医として「宗谷そうや」に乗り込んだ私の主人(※西牧栄さん)の撮った一枚の写真も偶然載ることとなった。そしてその本の巻末の年表は、図らずも、私の青春時代を戦争と重ね合わせて振り返るきっかけとなった。

東京市ヶ谷小学校に入学

 昭和十一年四月 牛込区(今の新宿区)市ヶ谷小学校入学。その二ヵ月前に二・二六事件が起きていた。我が家は陸軍の戸山が原練兵場れんぺいじょうに近く、電車通りには戒厳令かいげんれいが敷かれ、ものものしい雰囲気の中ザッザッという軍人の足音を聞いた記憶がある。
 昭和十四年 渋谷区常盤松ときわまつ小学校に転校。朝礼の後、明治神宮まで耐寒マラソンをした。
 昭和十五年 紀元二千六百年式典。
 昭和十六年 国民学校と改称。関西への修学旅行は中止。十二月 大東亜戦争の開戦。
 昭和十七年 東京府立第十九高女へ入学。当時、隣のクラスにはゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀実ほつみさんの娘、楊子ようこさんがいた。

山本五十六のお通夜の自宅へ

 昭和十八年 山本五十六連合艦隊司令長官が戦死され、女学校から友人と二人でお通夜の自宅に行った。

”いざ来いニミッツ、マッカーサー”

 すぐに日立市の日立工場に勤労動員され、兎平うさぎだいら女子寮に入寮した。毎日音波探知機を作った・・・鉢巻きを巻いて「いざ来いニミッツ、マッカーサー 出てくりゃ地獄に逆落とし」と歌いながら・・・
 ある日、宮様が視察に見えたことがあった。休日であったので臨時出勤し、翌日が休みになったのだが、まさにその日、工場に一トン爆弾が落ちた。私たちは寮にいて命拾いをした。
 昭和二十年 戦争が激しくなり父の実家の小池(※南相馬市鹿島区小池)に再疎開したが、すぐに終戦となり、私は石岡高女に戻った。

天皇の地方巡幸で接待役に

 昭和二十一年 私は高女の五年生に進んだ。この秋、天皇陛下が地方巡幸で石岡高女に視察に来られた。
 私は接待役の一人に選ばれ、当日は頭の先から足の爪まで清潔にするよう言われて、私は宮内省の方の担当になった。食事の後、陛下の残された野菜を見たが、セロリの後先が残され、真ん中だけちょっと食べられたようだった。
 私達の展示作品には天覧の印が押され、お帰りのお土産にと、割烹室で栗を何回も何回も磨いた。
 昭和二十二年三月 旧制五年で卒業した。

両親に守られて今の私がある

 全く激動の青春時代で、まともな授業は戦後の一年間だけだった。直接空襲に合う恐ろしい体験はなかったけれど、東京での食料難は厳しく、お鍋を持って雑炊ぞうすいの行列に並んだりした。母は衣類を食料に変えてくれた。本当に両親に守られてこそ、今の自分があると思っている。

平和の有難さをしみじみと

 男の孫が大学生になった今、戦争中の出陣学徒の壮行会のニュースを思い起こすと、平和の有難さというものをしみじみ感じているところである。