九十年間原町に住んで

 私は大正五(一九一六)年九月十一日生まれなので、満九十三歳です。新潟県の白鳥で有名な瓢湖ひょうこ水原町すいばらまち(現阿賀野市)に生まれ、三歳の時、両親とこの雪のない原町に移り住み商店を開いてきたので、ずっと原町のことを見てきました。
 もう目が悪くなり文字も書けないので、戦争中のことを話してみます。

軍隊で苦労した夫のこと

 昭和十年代、夫は召集され、はじめ中支なか(中国の中央部)の廬山ろざん付近に四年間もいて、中国軍と戦闘し、手榴弾てりゅうだんが当たり二ヵ月も入院し、左肘に大きな傷が残っていました。

夫の再召集で乳が止まる

 夫は昭和十七年に無事日本に戻ることができましたが、長女が生まれて六日目に、また招集されてしまいます。私はそのショックで乳が止まってしまいました。商売は私の父母がやっていたので、なんとかなりました。
 幸い再召集されても今度は内地の、しかもゆるやかな県内の部隊でしたので、本当に幸運でした。
 はじめは会津若松の部隊でした。その部隊に原町の若いTさんが初年兵として入隊してきました。同郷ということもあり、夫は優しくめんどうをみたらしく、戦後ずつと感謝されていました。

夫は仙台空襲の直前、石巻の部隊へ

 会津若松の部隊から湯本の部隊へ移り、面会に行ったこともあります。さらに別の地に移ることになりますが、どこの部隊かは軍の機密で教えてもらえませんでした。でも「護仙ごせん部隊という連絡だったので、もしかしたら仙台を守る部隊で仙台付近に移ったのではと考えていましたが、やはり仙台の八木山の部隊でした。
 しばらくして、石巻の渡波わたのはの部隊に移りました。それが七月十日の仙台大空襲の三日前だったそうで、それも大変幸運でした。もしも八木山の部隊にいたら、焼け野原になるほどの激しい空襲の仙台で、大変だったと思います。

終戦の年の春、Sさん宅に疎開

 昭和二十年、終戦の年、原町も米軍の空襲をうけるようになりました。私は三人目の子がお腹にいる妊婦でした。ところが以前からSさんは、近くに親戚もなく一人娘の私を妹のように大変可愛がってくれていて、「大事な体だから、私の家に疎開してきたら」と声をかけてくれました。本当に有り難いことでした。
 早速、原町町内から西へ約五キロの山里、石神の深野ふこうののSさん宅に、長女一人を連れて疎開しました。本町もとまちの家には父母と小学生の長男がそのまま残りました。
 四月ごろ、荷馬車を頼んで、身の回りの家財道具を積み、砂利道の大原街道(県道12線)をガタガタと西に向かいました。ついてきた長男は荷馬車の後ろにぶらさがって遊んだりしていました。私は妊婦なのに自転車で行きました。次の日はもう自転車には乗れませんでした。疎開するときは気が張っていたんですね。
 Sさん宅は大きな農家で、家の中は隅々まで心が行き届いていて清潔でした。ちり一つなく、畑は雑草の一本も生えていません。石造りの蔵に荷物を置き、私と娘は離れの隠居屋いんきょやで生活しました。
 炊事は勿論自分で行い、お風呂は母屋のものをお借りしました。その頃珍しいタイル貼りだったような気がします。上がり湯の”おかゆ”も付いていて、「手拭いは湯槽ゆぶねには入れないでね」と言われていました。

Sさんを恩人として感謝

 Sさんの旦那様は南方の島に出征しゅっせいしていて、いつも心配していました。Sさんは「ハルちゃん、ハルちゃん」となんでも私を可愛がってくれて、戦時中なのにお米や野菜の心配なども全くしないで済みました。
 遠く東の原町上空に米軍機が飛んできて空襲があると、「ほら、原町がやられてる。でもハルちゃんは妊婦だから火は見ない方がいいね」と心配してくれました。「ハルちゃん、死ぬ時は一緒に死のうね」と言い、私もその覚悟でいました。
 Sさんはもう亡くなりましたが、何年たっても、Sさんはじめ、S家の皆様には本当にお世話になり、恩人として心から感謝しています。

八月九日・十日、原町が空襲される

 昭和二十年八月九日と十日、原町が空襲された時、たまたま私は本町もとまちの家に帰っていました。家のすぐ前の油屋呉服店さんは鉄筋コンクリート造りの三階建で、当時の原町で一番高い建物でした。その屋上に監視所を作り、米軍の来襲を監視して「空襲警報」を発令していました。
 でも原町国民学校(現・原町第一小学校)の校舎がやられ、原町役場の北にも爆弾が落とされ、大きな穴ができました。同時に、原町紡織ぼうしょく工場(国見団地)も原ノ町駅も空襲され、たくさんの人が亡くなりました。
 その時私は七ヵ月の大きなお腹で、二人の子供とともに、家主さんの蔵の中に避難しました。夏なのに厚い蒲団ふとんを頭から被って、ただもう空襲の終わるのを祈っていました。幸い何も被害はありませんでしたが、あとで家の押し入れの所に機銃きじゅうが貫通していて、みんなで「危なかったな」と胸をなでおろしました。

座敷に正座して玉音放送を聞く

 八月十五日、正午にラジオで重大放送があるというので、Sさんと二人で着物に着替え、座敷で正座して玉音放送を涙ながらに聞き、終戦を知りました。すぐSさん宅から家に帰りましたが、疎開できたお陰で、妊婦でも何事もなく無事、なんとか元の生活に戻ることが出来ました。

夫も終戦一カ月後に無事復員

 夫は戦争が終わっても部隊の後始末で残り、渡波わたのはの海岸で軍旗や書類などを焼却したそうです。一ケ月後の九月に無事復員できました。
 Sさんの旦那様も終戦の翌年、南の島から奇跡的に無事に復員でき、原ノ町駅に着いてまっすぐ私の家に来て休んでいました。すぐにSさん宅に知らせると、息子さんが喜んで飛んできてお父さんに抱きついていました。本当に嬉しかったんですね。
 戦争なんてもう絶対してはいけません。子供にも孫にも曾孫たち家族にも、あんな思いはさせたくありません。そして終戦の年の十二月一日、私は無事三人目の子の男児を出産することができました。