梅の花も咲き始め、福寿草も顔を出し、春の味覚を満喫出来る幸せを感じながら大好きな春到来です。この様な平和を実感出来ますこと、振り返ってみる時、あの嫌な戦争という二度とあってはならない出来事を想い出さずにはいられず、忘れられず、六十数年前の出来事を回顧かいこ致しながらつづってみることに致します。
 私は昭和五(一九三○)年五月十二日、阿武隈あぶくまの山あいの津島つしま村(現浪江町なみえまち)に生まれ、今年八十歳になります。

兵隊さんの出征を見送る

 小学校高学年の頃、昭和十六年十二月八日戦争が始まりました。津島つしま村のバスの駅から、兵隊さんが出征しゅっせいして行きました。小さな日の丸の旗を振りながら、婦人会の人達にまじり見送りました。駅はいっぱいの人集ひとだかりでした。婦人会は「国防婦人会」というタスキを白い割烹着の上にかけた姿でした。村長さんの挨拶にはじまり、兵隊さんは「銃後じゅうごの守りをよろしく・・・」という様な言葉が入っておりました。
 千人針せんにんばりというものを、あちこちで赤い糸で縫って、これを持たせてやったようでした。「兵隊さんへ」という手紙も何回か書いて出しました。

婦人会や青年団の行進訓練

 また、私の家の近くに小学校の運動場があり、村の婦人会や青年団の人達の行進訓練を見に行ったものです。四列に並んでの行進は、足と手を一緒に動かす人があちこちにいて、今では考えられない光景に笑いながら見ていました。「イチニー、イチニー」の号令があり、一段と高い所に軍服姿の偉い人がおり、その前を通る時、班長の人が「カシラー右」という号令に一斉に右を向き、一生懸命でした。

竹槍たけやりの訓練など今では馬鹿げたことですが

 若い人達は「近くに爆弾が落ちた」という想定で、一列に並んで水の入ったバケツリレーで火を消す訓練や、竹槍たけやりの訓練もしていました。鉢巻きをして竹槍たけやりをもち勢いよく「突っ込め-」「ヤー」と走って行って人形を突く光景は、今考えると本当に馬鹿げたことですが、戦時中はそんな光景もありました。

小高町おだかまちの農学校に入学

 小学校六年、高等科二年、そして上の学校にと進む時は勿論六年生で津島つしま村から女学校行きはいませんでしたが、高等科卒で他校に進学するのはクラスで五、六人でした。
 私は小高おだか農学校(現小高おだか商業高校)に入学が決まり、家を去る時、隣近所からの餞別せんべつは一円位でした。学校の授業料が五円位だったと思います。
 私は兄と一緒で、小高町おだかまちの今村さん宅の二階を借り自炊しますが、炊事は下で行いました。炭の七輪で御飯を炊きました。焚き付けは小高おだか神社の裏山あたりから取ってきたものでした。今村さん宅は「へっつい(かまど)」というもので火を炊いていました。

空襲警報で安全な所に避難

 小高町おだかまちにも度々「空襲警報」があり、その時は安全な所に逃げなければなりません。ある夜は今村さんの子供を一人ずつおんぶして、小高おだか神社の前を通りぬけ、暫く行くと安全な隠れ場所があり、そこに行ったものでした。小高神社の北の人景はけいの防空壕に入ったこともあります
 また、学校への服装は制服があって、下はゴムの入ったズボンでしたが、下駄を履いて、手提てさげは木口のついた袋でした。
 勿論学校では、草刈り、そして田植えの農作業があり、田んぽは小高おだかうら干拓かんたくでの作業。学校から長い道のりを歩いて行き、田に入ると恐ろしい程大きなヒルに吸いつかれ、皆んなで大騒ぎしたことなどありました。

木炭バスは女性の運転手で途中で止まってしまい・・・

 戦時中は鉄道の切符もなかなか買えませんでした。ある時、津島つしまの家へ帰り小高おだかに戻るときのことです。朝早く母親に停留所まで送って戴き、浪江なみえ行きのバスに乗りました。ところが当時は石油不足で木炭バスで、しかも運転手さんは当時は珍しい女の方でした。男性の方は兵隊に行ってしまい少なくなり、女の運転手さんだと聞かされていましたが、途中でバスが動かなくなり、暫く待たされました。
 浪江なみえ駅に着いた時はすでに汽車には間に合わず、浪江なみえ駅から小高おだかの学校まで歩いたこともあります。それまで私は一日も欠席は無かったので、初めての道をよくも歩いたものと、今でもあの当時だから歩けたと思います。昼ころ学校に着いて皆に大笑いされ受けたことなど、遠い記憶がよみがえって参ります。
 やがて終戦。戦いはアメリカに負けたこと、校庭に一同並んで校長先生の訓話。女生徒は一斉にワンワン泣きじゃくりましたが、男性は黙って首を垂れておりました。

今は恵まれている時代ですが

 今は本当に恵まれた時代になりました。昔は正月三日位しか白い御飯は食べられず、今の時代にこんなことは若者には聞いてもらえない。こんな恵まれた生活が当たり前と思っていて、一抹の不安があります。
 戦争は本当に恐ろしい。赤紙(召集令状)一つで兵隊に取られ、国のために戦わなければなりません。私の夫の兄の羽根田昌己は相馬農校で大変優秀でしたが、終戦の二日後の八月十七日にわずか二一歳で戦死します。夫の叔父の羽根田利夫としお(ハネダ・カンポスすい星発見者)も兵隊に行きましたが内地召集で助かりました。
 戦争は本当に大変です。あんなことは繰り返してはいけません。