私は昭和四(一九二九)年十二月、原町に生まれ育ち、満八十歳です。
小学校六年の昭和十六年十二月八日に大東亜戦争が始まり、原町女校四年の昭和二十年八月十五日、敗戦により戦争は終結したが、戦中、戦後の混乱期に青春時代を送り、激動の昭和史の中で生きてきた私達。それでも、戦後は今日まで平穏無事に生きてきたのだから幸せでした。
だが、戦争中のことは絶対に忘れることの出来ない思い出として、胸の奥にしっかりと焼きついて残されています。
修学旅行の軽い気分で郡山の日東紡工場へ学徒動員
昭和十九年十月十四日、原町女学校の私達第十七回生百二十名は、一組担任高原(亀田)美代先生、二組鈴木千代子先生に引率され原ノ町駅から郡山に出発します。
まだ十四、五歳で幼い私達は、修学旅行にでも行くような、浮きたつような軽い気分で、また一方では学徒動員の一員としての誇らしさで郡山の日東紡富久山工場に皆と向かっ
た。工場に着いた時のその工場の大きさにびっくりしながらも、夕暮れのあの秋風の身に沁みる淋しさに、生まれて初めて家を離れて遠くに来たんだという思いに、十四歳の小さな胸に不安だけがかすめたことを、今も覚えている。でも御国の為の一念だけで皆一生懸命やってきたんだろうと思う。
工場では耐火レンガを作る
防空頭巾と救急袋を肩に、麻袋の前掛けをかけ、支給された制服と地下足袋で、毎日軍歌や愛唱歌を歌いながら、私達の職場、耐火レンガの原料を一輪車で運んだり、成型されたレンガを窯の中に積んだり出したりと、汗と油と埃にまみれて働きました。
夕食後の二時間の勉強も、日中の疲れで眠かったけれど、それでも日本の勝利を夢見て頑張ってきました。
昭和二十年四月十二日の空襲 まるで地獄のようでした
忘れもしないあの郡山空襲は、昭和二十年四月十二日青空の良く晴れた正午近くだった。食事前の手洗いの時、突然の空襲警報に空を見上げると、キラキラに輝いてB29が十機編隊で、花を散らすように工場の中心部に爆弾を落とし始めた。
私は近くの防空壕に入ったが爆風で崩れそうなので、「出るな」の制止も聞かず防空壕を飛び出し工場の外に逃げ出したが、どこまで逃げても爆弾に追いかけられ、爆風に倒され、生きた心地もなく夢中で逃げた。
途中、怪我をして助けを求める人、手足が吹き飛んで死んでいる人、黒コゲになっている人、田んぼは穴だらけ、東北本線の線路は折れ曲がり、まるで地獄でした。
早く飛び出し逃げても爆弾にやられ、少し遅れて逃げた人達も生き埋めになったりやられたりしたのに。人間の運命とは分からないものです。
空襲が終わっても、恐ろしさで職場の人達と山に隠れていたが、夜になってやっと工場に戻りました。工場は見るも無惨に破壊され、聖堂には亡くなられた方々が、何十体か数え切れない程、安置されていました。また大きな倉庫は赤々と燃え上がり、三昼夜も燃え続けたといわれます。
『原女生はほとんど死亡』の報に父は自転車で郡山へ出発する
その頃原町の方では、「原女の生徒は怪我人が二、三人であと全員死亡」との報が入ったそうで、私の父は心配のあまり、「様子を見に行く」と翌日の明け方暗いうちに、同じクラスの森岡信子さんのお父さんと自転車で出発したそうです。
学校でも全滅した生徒の死体を積んで来るため、急遽トラックを出し、飯舘の手前の八木沢峠で自転車の父達と遭い、父達もそのトラックに乗せてもらい、一緒に富久山工場に来たのでした。
父の愛を感じながら母のおむすびをみんなで
悪夢の一夜を不安で過ごした私の目の前に、思いがけない父の顔、そして一緒にトラックに乗ってきた目迫豊先生達と無事を喜びあい、もしも生きていたらと父が持ってきた母の心づくしのおむすびを、友人達と分けあい食べたあのうまさは今思い出 されます。そして父が自転車で郡山に行こうとしたそのことが、私の胸にズシンと響く父の愛を感じ、唯嬉しく涙ぐんだものである。
平和な時代をいつまでも
その父も目迫先生も、今は遠くへ旅立ち、歳月の流れはあの苛酷な戦争をも記憶の中に埋め込み忘れ去られようとしている。
しかしあの戦争体験者として、この平和な時代を永久に持続させなくてはいけないと思うばかりである。この素晴らしい平和な時代に生きている私達は、あの戦争で亡くなられた方々の犠牲があっての平和であるということを絶対に忘れてはならないと思う。
今でも同窓会を開催し郡山の工場を訪ねたり
あれからもう六十五年もたちますが、これまで同じ工場で動員されていた川俣工業、磐女と原女生の合同同窓会を開催し富久山工場を訪ねたり、何回も同窓会を開いては当時のことを語り合っています。
空襲から四十年目の昭和六十年には、学徒動員や空襲のことを作文し、『学徒動員から四十年・郡山空襲の思い出』という本も出版し話題になりました。
今年三月にもみんなで集まり、親睦を深めたり、家族の健康や幸せを祈っています。