私の戦争体験
終戦の頃の原町飛行場 前編
九条ブログはらまちNo.134(2010年5月8日)
私は昭和五(一九三○)年四月一日原町区馬場生まれで今年八○歳になる。
兄三人が出征 家は四人だけに
大東亜戦争の開戦から三年の昭和十九年、日本軍はじりじりと追い詰められ、太平洋の諸島の各地では玉砕を強いられていた。我が家ではすでに長男の多男、三男の敏美の出征に次いで、昭和十九年四月十八日には次男の英勇も召集され中国に向かった。
あとに残された家族は、両親と四男で十四歳の私、そして妹の四人だけとなった。強力な働き手を失ったことは、生産増強を強いられていた父にとって大きな痛手となった。働けど働けど仕事に追われ続けた。
父は息子たちの安否を気遣い毎日の新聞記事に目をこらす
兄たちからの音信は少なく、十九年八月七日、長男から「満州からフィリピンのマニラ港に上陸した」との手紙が届き、三男敏美からは十月十日、大分駅からマル秘の発信で「カエルマデマテ」の電報が届いたが、それが最後の音信になった。敏美はその一ケ月後に戦死する。
家族は戦局を伝える新聞記事だけが頼りだった。農作業を終えて一息ついた父は、日々息子たちに繋がる記事はないものかとラジオや紙面に目をこらした。特に、フィリピン戦線の記事を見つけると、長男の部隊のことではなかろうかと想像を巡らせながら安否を気遣った。
昭和十九年十一月フィリピンで三男の敏美は特攻で戦死する
昭和十九年十一月六日、三男の敏美はフィリピンのルソン島沖のアメリカ軍艦に突撃して戦死する。しかしその戦死を家族が知ったのは七ヵ月後の二十年六月九日のことだった。
六月九日も明け方早くから、父豹象と私は田んぽの代掻きをしていた。そこに志賀家の二軒隣の遠藤七兵衛さんが「豹象おじさん、新聞に敏美君の名前が出ている!特攻隊で戦死だって!」と新聞を抱えて跳んできた。
その時父は、顔色ひとつ変えることなく泰然と「そうか、やったか」とだけ言って、また仕事を続けた。しかし、心中は悲しみでいっぱいだった。
擬装格納庫づくりの勤労奉仕
その時期、私たち相馬農蚕学校の生徒も学徒動員法に基づく勤労奉仕が日課になり、一番多かった作業は、原町飛行場周辺に飛行機を護るの擬装格納庫づくりだった
二十年二月、原町が初空襲
米軍の日本本土に対する本格的な空襲は、昭和十九(一九四四)年十一月、マリアナ基地からのB29によって開始された。以後、日本の主要都市は米軍の無差別絨毯爆撃によって焦土と化していった。
飛行場と隣接の原紡では挺身隊員ら四人が死亡
原町に艦載機が現れたのは昭和二十年二月十六日のことだった。本土に接近した米機動部隊から発進した約二千機の一部が原町に来襲した。硫黄島上陸に先だっての牽制が目的で、この三日後の二月十九日、連合軍は硫黄島に上陸を開始した。
二月十六日午前八時過ぎ、グラマン戦闘機とアベンジャー爆撃機からなる十六機の編隊が、原町飛行場と原町紡織工場(原紡)を繰り返し攻撃した。空襲警報もなく誰もが予想しなかった突然の空襲だった。
原紡では教員と女子挺身隊員、学徒動員生ら四名が死亡した。工場では始業の点呼が終わって仕事に就こうとした時だった。原紡が飛行場に隣接していたことが悲劇の原因だった。
父は母屋の裏に防空壕を掘り始めた。徹夜を繰り返しながら、かなりの日数と材料を使って、家財や家族が避難できるだけの頑丈な防空壕に仕上げた。
飛行場の部隊でも、馬場地区一帯に軍用道路を拓き、山林の至る所に燃料用のドラム缶を隠蔽する壕を開削した。それらの壕に運び込まれたドラム缶は相当な数に上った。
四月十二日 郡山方向に向かうB29の大編隊を呆然と眺めた
四月十二日の真っ昼間、初めて原町地区に空襲警報が発せられた。鹿島の烏浜方面からB29の大編隊が侵入し、国見山上空を南西の郡山市方向に悠々と飛んでいく様子を、私は友人とともに、相農の校舎裏の木陰から呆然と眺めていた。それは郡山を空襲するための大編隊だった。
また我が家の近くの飛行場でも、上空で訓練中の戦闘機の爆音、整備兵が試運転するエンジンの音などが轟々と、毎日農作業を続ける両親の耳に覆い被さってくる。農作業には相農生徒の奉仕を受けるなど、両親はやりきれない思いに堪えながら、銃後国民の務めとして日々耕作に励んだのであった。
軍人に憧れ飛行兵を受験
家の周辺にはいつも軍人がいて、いつしか、私は彼らに憧れるようになり、昭和二十年、平市で行われた陸軍少年飛行兵採用試験を十四歳で受けた。飛行兵を補充するため軍当局から学校側に圧力があったのか、旅費は公費だった。父も黙って承諾の印を押した。幸い、終戦となって私は入隊することはなかった。
仙台空襲で空は茜色に染まる
七月十日午前零時過ぎ、マリアナ基地を出発したB29爆撃機百二十三機が仙台を空襲し、無数の焼夷弾を投下した。茜色に染まった空は志賀家の裏山からも手に取るように見えた。この時仙台の医師の姉は無事だったが、仙台市街は四分の一を焼失した。
次は原町が空襲という噂で人も馬も山あいに避難
さらに七月十四日には岩手県の釜石に本州初の艦砲射撃があり、四二一名が犠牲になった。
間もなく、次の目標は飛行場のある原町だとの噂が流れ、住民の間に一気に緊張が走った。
気の早い者は山あいや谷間に避難した。近隣の人たちは、近くの地切溜め池の隧道に避難した。家族同様の馬も奥地の木陰に柵を造って繋ぎ、餌を運んだ。馬も立派な働き手であっただけでなく、軍馬としても鍛錬しており、人一倍可愛がっていたので置き去りにすることはできなかった。
蒸し風呂の暑さの避難所内
その年は異常気象を思わせるような猛暑が続いていたから、隧道内は蒸し風呂のように暑くなった。運び込んだ手荷物は汗に濡れて異臭を放ち、蚊や夏虫が群がり、とても身体を休めるような場所ではなく、溜め池隧道と家の間を何度も往復した。
二、三日たって、艦砲射撃はなさそうだと、それぞれの家に戻ったが、それから間もなくの八月九・十日、原町は再び、艦載機による激しい空襲に見舞われることになる。
終戦の頃の原町飛行場 後編
九条ブログはらまちNo.137(2010年6月18日)
家は飛行場警備隊の宿舎に
私の家は原町飛行場の正門から五百メートルの地にあり、その間の道路も整備され、沿道には柿や桑の木などの木立が並び、我が家は江戸時代は肝煎りをつとめた大きな農家だったので、飛行場警備隊の宿舎に割り当てられた。
十数名の兵士が四、五台のトラックとともに移ってきた。彼らは北海道から鹿児島まで広い範囲から召集された中年の兵士で、班長は山形出身の小野寺伍長とかいった。彼らは被弾して陥没した滑走路の補修などを担当していたようだ。
夜すすり泣く兵士もいた 少ない弁当に両親が差し入れ
兵士たちは座敷の七つの部屋に寝泊まりし、昼夜を分かたず頻繁に出入りした。夜になると蚊帳のなかで、郷里や家族のことを話しあってすすり泣く様子も耳にした。
毎食の弁当は飛行場の烹炊所から運ばれてきたが、食器の中のご飯やみそ汁は驚くほど少なく、古参兵は運んできた当番兵に不満を浴びせかけていた。都市だけでなく農家でさえ、米櫃の中は空っぽという時代だった。
見かねた両親は、我が子のように憐れみ、時々ジャガ芋や炒り豆などを差し入れてた。
飛行場本部も我が家に移転 柿の木の上に対空監視所も
釜石への艦砲射撃があった七月ころ、飛行場の本部事務所も我が家に移転してきた。上座敷の一室が会議室となり、通信線も引かれた。
奥の一室には、前年の昭和十九年十一月六日戦死した私の兄の、「神風特別攻撃隊零戦隊海軍少尉志賀敏美」と明記された祭壇と遺影が置かれ、戸締めされていた。
家の百メートル前方の桑園の柿の立木には、対空監視所が設けられ、兵士が配置された。裏山には無数の「タコ壷」(一人用の防空壕)が掘られ、裏通りの道路わきには一基の銃口が上空に向け据え置かれた。
八月九日 米軍艦載機の来襲
終戦間近の昭和二十年八月九日、浜通り沖二百カイリに接近した米機動部隊の空母十六隻から、艦載機が群れをなして発艦していった。この日東北だけで千六百機の米軍機が投入され、その一部が原町に来襲した。これが「原町空襲」である。
午前十時頃、飛行場めがけて攻撃を始めた。グラマン機は、国見山上空から決まったコースで我が家の真上から飛行場めがけて急降下、機銃掃射と爆弾投下を繰り返した。
機銃掃射に為す術もなく
庭先に炸裂音が響き、爆風が吹き荒れ、ガラス戸が吹き飛んだ。柿の木の対空監視所にいた兵士も爆風に煽られて落下した。
敵機が去ったあとの庭先には無数の銃弾のカラ薬莢や爆弾の破片が散乱していた。咄嵯のことで、屋敷の裏に備え付けた機関銃口からは、最後まで火を吐くこともなかった。混乱する飛行場からは二人、三人と、日の丸鉢巻きで飛行服を身にまとった陸軍特攻兵士が裏の川沿いに避難してきた。
米軍は、相農の生徒たちが作ったべニヤ板のニセ飛行機や、飛行場周辺や掩体壕に隠した戦闘機を狙って機銃を浴びせ爆弾を投下した。午後には、原町紡織工場が銃爆撃されて猛火を発した。
明くる八月十日は、二千機の米軍機が発艦した。原町にはグラマン六機が南方から飛行場に来襲した。急降下しながら機銃掃射してくる敵機に、少年飛行兵や少年航空通信兵たちが機関銃で応射し立ち向かったのか、一名が被弾し戦死した。十六歳の少年兵だったらしい。
相馬郡だけで五十人の死者
この日の波状攻撃で、相農の畜舎と教室も直撃弾をうけて家畜が殺され四教室が焼失した。また原町国民学校や原町駅の機関区など、市内のあちこちが被害を受けた。他の編隊は、浜通りの海岸地区に波状攻撃を仕掛けた。母の生家のある鹿島地区でも、住民が周辺の山林を逃げ惑った。この日、相馬郡だけで五十人前後の死者を出した。
大本営陸軍作戦部長が来宅 空襲で私と防空壕に飛び込む
空襲のあった八月九日の朝、四人の将校が車で我が家にやってきた。三人とも腰に軍刀、胸にモールをつけ、見るからに高級将校の出立ちであった。奥座敷に通されると真っ先に、神風特攻で戦死した兄の敏美の祭壇に手を合わせた。
そして飛行場本部事務所となっていた部屋で秘密会議を始めたその瞬間、グラマン機による空爆が始まった。私の誘導で将校たちは奥座敷廊下に出て防空壕に飛び込んだ。
その中でひとりの将校が「特攻隊で戦死されたのは貴方のお兄さんですか」と私に尋ねた。「そうです」と答えると「立派なお兄さんですね」と言った。この防空壕でのやりとりが、忘れ得ぬシーンとして永年、今でも私の脳裏に強く焼き付いている。
敵機が去ったあと、将校たちは壕から出て話を続けたようすだが、いつの間にか姿を消していた。敏美の祭壇には、「大本営第二課・陸軍中佐 稲葉正夫」の名刺が残されていた。
宮崎周一陸軍中佐の日記に「八月九日原町空襲」の記述
来訪した将校は、参謀本部第一部長、即ち大本営 陸軍部作戦部長宮崎周一陸軍中将と、同じく作戦担当の第一部第二課班長稲葉正夫中佐ほかの幕僚だった。
大本営の中枢メンバーは、何のためにこの原町までやってきたのだろう。稲葉中佐は八月十三日の夜、徹底抗戦を企図してクーデターを計画したとは聞いていたが、原町来訪と関係があったのだろうか。長い間それが謎だったが、今年平成二十二年二月になって、『宮崎周一の日記』を手にしてようやく判明した。
日記には、原町飛行場に視察に飛来し、空襲に遭い、夕刻原町飛行場から所沢経由で参謀本部に帰着したことが明記されていた。
八月十五日 ついに終戦 天皇の言葉に嗚咽が広がる
十五日の朝、ラジオニュースが「本日の正午、天皇陛下の放送がある」と報じた。志賀家に滞在している兵士たちに動揺が走った。
正午を迎えた。兵士たちは庭先に全員が整列し、初めて聞く天皇陛下の言葉に耳を傾けた。それは戦争の終結を宣言するものだった。兵士たちの間に鳴咽がひろがり、戦闘帽で額から流れる汗と、目からあふれ出る涙を拭うのであった。
兵士たちは関係書類を焼却
皇居に向かって黙祷したあと、進駐軍に捕らわれるという噂がながれ、一斉に所持品の始末が始まった。関係書類を屋敷前の畑に積み上げて火をつけた。炎が「すべて終わった」を宣告しているかのように、見る者に寂しさと悲しさを呼び起こさせた。
一方で、今夜からは灯火管制を気遣うことなく、また空襲警報のサイレンに悩まされることもない、戻ってくる平和な暮らしに思いが湧いた。
それまで殺気立ったようにして付き合ってきた兵士たちも、「おばさん、サヨーナラー」の声を残し、トラックに分乗して何れへともなく去っていった。家族のもとに無事帰り着くだろうか、不安と寂しさで見送った。
戦争も終わり、兵士たちが去って、我が家に静けさが戻ってきた。あとは出征している兄や姉たちの帰還を待つばかりである。
義兄はシベリア抑留 長男の兄は遺骨箱で帰還
いよいよ戦地からの復員が始まったとのニュースが流れ、長女が戻る。しかし次女の夫はシベリア抑留、ほかの肉親も家族ともども引き揚げてきた。しかし、二人の兄からは何の連絡もなく、両親の日常の振る舞いの中に、息子の帰還を待ちわびる心情が滲み出ていた。
終戦の翌二十一年六月、次男・英勇がひょっこり復員。翌二十二年五月、家を継ぐべき長男・多男は、一枚の紙片の入った遺骨箱となって帰還した。紙片には「昭和二十年五月一日、フィリピンにて戦死」と書かれていた。出征してから六年後のことであった。
戦争は絶対許せない
私は四男三女の兄姉で、兄二人が戦死。無事復員した次男は、長男の帰還を考えて家を出た。しかし長男の戦死で、結局四男で末っ子の私が志賀家を継ぐことになる。
戦争は絶対許せない。相手を、人を殺すことだから。特攻隊で戦死の兄敏美の胸像や石碑が、夜ノ森公園や馬場の墓地に建立されたが、あくまで「平和祈念像」としてある。平和であることが一番大切なことです。