広島の比治山の部隊で被爆
私は大正十五年二月、南相馬市鹿島区に生まれ、今年八五歳です。十九歳の時、広島の軍隊で被爆しました。
昭和一八年に軍需省に入り、大阪の近畿管理部で約半年間つとめました。その後、昭和二○年四月二四日ごろ、広島の船舶通信補充部隊第一六七一○部隊に現役召集され入隊しました。部隊は広島市の比治山の南の皆実町みなみまちというところにあって、爆心地から約二キロメートルの地点です。大変大きな部隊で、全部で二千人ぐらいの兵隊がいました。
戦後に分かったことですが、新地町の飯土井鶴吉さん(故人)も同じ部隊にいて、悲惨な被爆体験をしています。
四月に入隊し、私は二等兵でしたが通信の幹部候補生で、毎日モールス信号の訓練に励んでいました。五月ころからその部隊のなかの「カ隊」というところに入りました。
呉が激しい空襲にあうのを目撃
原爆投下の八月六日の三日ぐらい前から、夜間の空襲が激しくなり、広島は空襲されなかったのですが、広島の近くの呉あたりが随分やられていたようです。私の部隊から呉がやられるのがよく見えました。昼もアメリカ機が降下しては上昇するのがはっきり分かりました。
そして私たちの部隊でも比治山の上の方に防空壕を掘って、そこに機材や衣類や食糧を保管する作業を行いました。夜間交替で作業は続けられたので、兵隊はみな疲れていました。食糧事情も大変悪く、みな栄養失調のような状態でした。
「初年兵、箸は左手に持て」
部隊の食事はいつも一汁一菜で、ごはんなんかは飯盒のフタにさらっと一膳で、それを「二〇分かけて食べよ」と言われていました。
でも私たちは一九歳で食べ盛りですから、二、三分であっという間に終わってしまうのです。すると、「初年兵、箸を左手に持て」と言われ、無理にゆっくり食べさせられました。
八月六日、原爆投下の時 兵舎で仮眠していたが
八月六日の原爆投下の日、いつものように五時の起床、朝食は七時でした。ところが、毎日防空壕掘りの作業でみんな疲れきっていたので、私たちの部隊は午前中就寝休暇となり、各自宿舎で自由に眠るなり休んでよいことになっていました。
宿舎は二階建てで一部屋に七五人ぐらいいました。ベットは狭く、幅は五○センチぐらいしかありません。本当は二段ベットなんですが、その間にもう一段ベットが入っていて、それを「二段ギソウ」とよんでいました。つまり兵隊を二倍収容できるわけです。とにかく私はその時、その二階の北の窓から二番目のベットで眠っていました。
一瞬にして兵舎は破壊され
午前八時一○分過ぎだったのか、時間は分かりません。飛行機が飛んできたのが、うつらうつら分かっていたような気がします。空襲警報は鳴らなかったのか、だれも避難はしていません。
ピカッと朝の太陽の光とはまた別に、それ以上の明るい、黄色っぽいような光を感じました。と同時にドーンという大きな音がして、音とともに一瞬にして兵舎は破壊されました。
ベットの間に入って助かる
棟が落ちてきて瓦がガラガラと崩れてきました。私はベットの「二段ギソウ」の下にちょうどうまくくぐってしまい、それで助かりました。胸が圧迫されて苦しかったことを覚えています。瓦と同時に壁土も落ちてきて、もう土けむりでなにも見えません。
枕元にきちんと置いたはずの服も靴も帽子も見当たりません。下着のままはだしで外に出てみると、町のあちこちから火事が発生していました。
大きな「きのこ雲」を見上げた
比治山の上の防空壕の前に集まり、茫然として山のところに背をもたれ空を見上げていました。するとそこにモクモクと黒い大きな雲ができ、どんどん盛り上がって大きく動いていました。夕立でも来るのかと考えましたが、それが「きのこ雲」でした。
そのうち、「元気な者は出てこい」と言われ、靴と服をもらって内務班にもどり、部隊内のけが人の収容にあたりました。私と同室での即死者は、茨城県の山田という一人だけでした。
死んだ人の体に初めてふれた ”死体って随分重いもんだ”
けが人の収容作業ではいろいろな負傷者に出会いました。整列していた兵士はみな同じ方向の顔の半面だけがひどい火傷をして将棋倒しになっていたり、帽子の下の外に出ているところだけが火傷をしている人や、脳みそって白いもんだなと初めて分かったり。また、生まれて初めて、死んだ人の体にふれて運んだり。死体はドンコロと全く同じで、硬く伸びたままで随分重いもんだなあと感じたり。十九歳でしたから、あまり気持ち良いとは思えませんでした。私たちの部隊二千人のうち、百人ぐらいは亡くなったと思います。ほとんどの人がケガをしていました。
市民の負傷者もやってきて「兵隊さん助けて、水を」と
二、三時間後でしょうか、広島の町の一般の負傷者たちが、私たちの部隊に助けを求めてたくさんやって来ました。「兵隊さん助けて」「水をください」と言って。あの悲しい、哀れな声は全くいいもんじゃありませんし、今でも忘れられません。
水道はもう止まっていましたから、古井戸から水をくんで子供にも飲ませたりしました。火傷のひどい人は、皮がむけてしまって、まるでボロのシャツを着ているようでした。それにゴミなんかがたくさんついて、本当に残酷なものでした。飲ませた水だって、そんなにきれいな水じゃありませんが、仕方ありませんでした。
「すごい威力の爆弾だな」
それから部隊の仲間の負傷兵を、広島の南、一里ぐらい離れている宇品船舶練習部に担架で運びました。運ぶ途中、「被害がこんなに遠くまで広くやられて、本当にすごい威力の爆弾だな」と思いました。原爆とわかったのは、三日後ぐらいだと思います。
その晩は宇品にゴロ寝し、けが人だけには毛布を一枚敷いて並べて寝かせました。昼食なんて食べるどころではなかったし、夜食に携行食の乾パンをその日初めて食べました。コンペイトウが二つくっついた、硬い小さな乾パンで、味なんかありません。水を飲み飲み食べました。
翌七日にはまた部隊にもどって兵舎の後片付けの作業をしました。
八月一五日の終戦の放送は、無線機を通して聞きました。その二、三日前ごろから、どうも下士官の様子がおかしく、うわさ話でみんなで「戦争はやめるんじゃないか」なんて言っていました。部隊が解散になったのは九月二○日でした。
姉たちが広島まで迎えに来る
ところが私の鹿島の生家では、終戦後一ヵ月以上も経つのに、私の消息がつかめず心配して、姉といとこの三人が、私を迎えに広島までやって来ました。交通事情も悪く、切符も買えず、瀬戸内海を経由して苦労して、九月二三日の夕方、広島に着きました。私だって連絡のしようがありませんでした。そして、四人で広島の宇品から船で尾道へ。尾道から鹿島までは汽車で帰りました。
幸い、体は異常なしで
本当にこんな原爆や戦争中のことなんか、夢のようです。戦友会などでこれまで五回広島を訪ねています。幸い私は爆心地から二キロメートルの地点で被爆していますが、一年ぐらいは体はだるかった。でも幸いその後、何ら異常はありません。健康で酪農業に従事し、子供は三人、孫七人、曽孫一人になりました。
今だからこそ被爆の話もできますが、昭和二七年に結婚した時も被爆のことはふせていました。それだけ不安も偏見もありました。
原爆手帳は雑誌『家の光』で読んで、県に申請しますが却下され、同じく広島の宇品の軍隊にいた鹿島の烏崎のNさん(故人)の証言でようやく交付されました。
日本の原爆製造計画は失敗
原爆なんて本当にひどいもんです。でも私が鹿島区の真野小学校で代用教員をしていた昭和一八、一九年の元旦の『日日新聞』に、「マッチ箱ぐらいの大きさの武器で大艦隊を撃滅できる弾薬」、というような、今考えると原子爆弾のことだと思うのですが、そんな記事があったことを覚えています。日本でも原爆を研究していたが、製造過程で爆発し失敗した、ということもあったそうです。
国と国がお金の対立で争いや戦争になるのですが、戦争だって決してやるべきではないと思います。あんな悲惨なことはたくさんです。