私は大正十三年生まれで今年八十三歳になります。昭和二十年一月から二十二年十月まで衛生兵として現在の北朝鮮に出征しゅっせい。ソ連軍と戦い、さらに極寒のシベリアで二年間耐え、九死に一生を得た辛い経験があります。

昭和二十年八月十五日 終戦の日の馬乳山ばにゅうざんの戦い

 昭和二十年八月十五日は、現在の北朝鮮の「馬乳山ばにゅうざん」でソ連軍との死闘の日である。この日は、大変暑い日で、朝のうちから灼熱の太陽が陣地一杯に照射していた。
私は、中隊付き衛生兵のため陣地構築には参加せず、常に幕舎にいて、兵隊が夕刻、陣地作業を終て幕舎に帰ると忙しくなり、兵隊の怪我の治療やら、体調などについて各班を聞き歩き、練兵休の手続きなど消灯時刻まで仕事を続ける毎日であった。

突然ソ連軍が攻撃

 この日も、いつものように兵隊は陣地作業のため全員出て行った。
私も前日の怪我の状況など報告をまとめ、一応暇ができたので、午前九時から炊事の手伝いに行った。この日のメニューは、牛肉の煮つけだった。牛は、昨日現地人が弾薬を運んで牛車を引いて来たその牛だった。弾薬を運んできた現地人は、ソ連軍からの砲撃に驚き、牛車を四中隊に提供して帰ってしまった。茶色の大きな老牛で煮ても柔らかくならず、なんとか食べられるようになったのは正午近くになっていた。

私は岩の陰に隠れて

 ところが、その時ピュッと弾が炊事場の方に飛んで来た。ソ連軍の攻撃だった。一人の兵隊が青い顔して、中隊長からの伝令だと言い、直ちに幕舎を燃やし大隊本部に後退せよとのことだった。
 私は衛生兵のため兵器は一切与えられておらず、急いで幕舎に戻り衛生用具入れカバンを肩にし、細い川の中づたいに大隊本部へと向かった。後退途中、関東軍から来た工兵隊とも一緒で、また何人かの兵隊がソ連軍攻撃により死亡した者もいた。私にも大変危険が迫ってきて無我夢中で後退していると、間近に自動小銃の音が聞こえている。そっと岩の間から見ると、すぐ近くでソ連兵が後退する日本兵を攻撃していたのでした。私は震えながら川添いにある大きな岩の陰に隠れてソ連兵の去るのを待つことにした。
 やがて夕刻となり薄暗くなった頃、ソ連軍の姿がなくなったのでの急いで大隊本部に歩き始めた。すっかり暗くなって、本部に着いてみると、我が中隊の生き残り四十七名は大隊長に「敗残兵」と罵られ、早津小隊長はきつい仕打ちを受けたりした。命令で後退したのに不名誉な扱いを受け、私は承服できない気持ちで一杯だった。

一度は死を覚悟したが

 その後、私たちの軍とソ連軍との熾烈しれつな戦闘が始まり、俺たちの命もあと数時間で終わりを告げる、覚悟はよいか、と己に言い聞かせたりした。しかし、隣の部隊が全滅したため、ソ連軍の攻撃が止み、私たちは山の中で、出撃命令を待っていた。
 ところが数時間経つと驚いたことに、大隊本部から馬に乗った下士官かしかんが白旗を掲げて戦闘地に向かって急ぐ姿が見えた。その軍使は「もう戦争は終わった、大隊本部に集結せよ」と通告。私たちはこれで生き延びられると喜び、腰も砕けそうになり、幕舎で安心してその夜を過ごした。
 明けて十八日、全員で馬乳山ばにゅうざんの戦死者の遺体捜索の命令が出た。死臭漂う中、七十名の遺体を一カ所に集めている時、今度は満洲のツーメン(図們)に集結せよとの命令で、夕刻向かう。そこで武装解除を受け、誰もが日本に帰国できるものと思っていたのだが・・・

飢えと寒さのシベリアで

 しかし今度は、ソ連軍の命令に変わり北朝鮮から歩いてソ連軍国境を越え、海の見える丘に約二週間の野営。さらに乗車しなければ銃殺と言われながら貨車に乗り込まされて十日間も走りに走り、国境から千五〇〇帰路のコムソモリスクというシベリアの奥地の街に九月初旬に着いた。
 それから二年余、あの厳しいシベリアで、飢えと零下数十度という寒さとの闘いの日々だった。木材の伐採や穴掘り、その他の重労働に苦しみ、食べ物はコーリャン、大豆、えん麦で十日間も二十日間も同じものが続いた。一日のうち一食だけは黒パンだった。水は貴重でうがいも手洗いも顔も洗うこともできず、頭から足までしらみもに襲われ発疹チフスや栄養失調、疲労のために死んだ戦友も多かった。
 昭和二十二年十月、突然帰国命令が出て、ナホトカからの引揚船で幸運にも復員帰国することができた。
 今年も八月十五日が巡ってきたが、私は馬乳山ばにゅうざんでの壮絶な戦闘を思い出し、戦友の遺骨をそのままにして帰国したことを悔い、このままでは戦後は終わらないと思い続けている。