県立長崎中学校に入学
 私が長崎で原爆を体験したのは十五歳、旧制中学三年生の時でした。
         その前、私は父の勤務地の台湾にいたのですが、どうも台湾の気候が私にはあわないようで、小児ぜんそくにかかっていたのです。それで、家族と別れて私一人が、父の出身地の長崎へ昭和十七年に移り、一年やり直して、県立長崎中学校に入学しました。
上級生のいじめがひどくて
はじめ学校の寮に入ったのですが、そのころのことですから、先輩の上級生が私たち下級生をひどくいじめるのです。言葉づかいが悪いとか、態度がどうのと殴られるわけです。土曜日の夜は特にひどかった。軍隊の悪い面をそのまま、マネしてるんですね。宿舎に二年の時までいましたが、そんな宿舎生活をかわいそうに思ってくれた父の知人が、その後私を引き受けてくれて、私は長崎市の南の方の中川町に下宿して住むことになりました。
教室はエ場に変ってしまい
 中学校の正式な授業はそのころはすでになくなっていて、毎日学徒動員の作業をさせられていました。中学校の校舎を工場に改造し、三菱造船から機械を持ち込んで、「ナ(まるナ)工場」と呼ばれていました。各種旋盤、スライス盤、ボール盤などがしつけられ、かつての教室は、油と鉄くずの匂いが充満していました。
         その中で私はターレット旋盤を動かして、新しく動員されてきた下級生の指導にあたっていました。”鋲”を作るのですが、何の部品かは知らされていません。あとで考えると、特攻艇の鋲のようでした。今でも旋盤を見るとなうかしいというか、当時が思い出されます
昭和二十年八月九日、昼寝中に「B29一機が島原半島を西北進中」
 昭和二○年八月九日、その日は三交替の夜勤でしたので、私は下宿していた中川町郵便局の二階で昼寝をしていました。十二時前、下の郵便局で鳴らしていたラジオが、「警戒警報発令、B29一機が島原半島を西北進中」と何回もくり返し告げていました。
         私は「またか、たいしたことはないな」と思っていましたが、もうすでに私の耳にはいつも開きなれたB29の爆音が「ウォーン、ウォーン」と聞こえてきました。私は立ち上がって窓の方へ見に歩きかけ、空を見たその瞬間、ピカッとものすごい閃光が眼前いっぱいに広がりました。
ごう音とともに吹き飛ばされた
 「あっ、目がつぶれた」「私に落ちたのか」と思ったと同時に、ドカーンというごう音とともに、体が吹っ飛びました。本能的に、親指で耳をふさぎ、残りの指で目を押さえて倒れました。これは防空演習でいつも訓練していた格好です。
         家が大きくゆれ、背中の上に屋根瓦や土のかたまりがどんどん落ちてきます。天井板をはずしておいたため、ひどかったのです。
桐のタンスに無数のガラス破片が
 その時の時間は一瞬のようでもあり、長い長い時間のようでもありました。やっと静まり、下の郵便局の局員やお客さんの悲鳴が聞こえてきました。おそるおそる立ち上がってみると、そばにあった桐のタンスに無数のガラスの破片が突きささっていました。
         幸い、私はどこもケガはしていませんでした。すぐに下に降りました。郵便局内はガラスの破片でケガをした人達がうろうろしていましたし、お札(紙幣)が舞いあがりとんでいたことを覚えています。
         誰言うともなく、「横穴防空ごうに逃げるのだ」と言い、表に飛び出しました。爆風によるほこりで街全体がかすんでいます。その中を突っ走って神社にある横穴防空ごうにたどり着きました。近所の人達もゾロゾロと皆避難して来ました。その人達は口々に「うちの裏に爆弾が落ちた」と言っています。私も郵便局の裏に落ちたと思っておりました。それほど衝撃が激しかったわけです。しかし、あとでわかったことですが、四キロメートルも離れた浦上に、たった一発の原爆が落下傘で落ちただけでした。友人には原爆の落下傘を目撃した人すらいます。
キラキラとビラがまかれた
それはともかく、やっと落ち着いて空を見上げると、爆煙で太陽がボンヤリと輪郭がくっきりと見え始めました。きのこ雲が不気味にできていました。そしてそのきのこ雲の間からキラキラというか白く光るものが無数に落ちて来ています。私はそれが今に爆発するんじゃないかと思われましたが、それは伝単(ビラ)でした。憲兵がすぐに回収してまわりましたが、多数の長崎市民は読んでしまいました。私も読みましたが、こんな内容だったと思います。
『この本日投下した爆弾は、アメリカの優秀な科学者が発明した新型爆弾である。この一発はB29二百(二千か)機の搭載する爆弾の量に匹敵する。早く寛大なるアメリカ政府に降伏せよ』
と。日の丸が表に印刷されていて、良質の紙を使っていました。伝単は午後の二、三時ごろにまかれたように記憶しているのですが、あるいは私の記憶違いで、九日当日ではなかったかもしれません。
九日夜は防空壕の中で明かす
やがて、夜になりました。爆心地の火災は街全体に広がっていて、炎は夜空いっぱいに赤々とこがしています。ドラム缶が破裂する音や、建物が崩れる音が、夜を徹して聞こえてきます。一晩中、まんじりともせず防空ごうの中で明かしました。
翌日、伝令として爆心地へ
 翌十日、登校すると救護班が編成され、私は軍の司令部に集められ、連絡係、つまり伝令となって爆心地方面に行かされました。
         長崎駅の大きな建物は跡形もなくなっていました。途中、担架で運ばれるたくさんのけが人や、るいるいと横たわる死人の山、馬などの動物の死体もゴロゴロしていて、今まで全然感じなかった恐怖感が一度に湧いてきました。そういう光景の中で、未だに忘れられないことがあります。