福島県南相馬市から憲法9条を守り、戦争反対・脱原発を訴える

私の戦争体験

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「あっ、目がつぶれた!私に落ちたのか」十五歳、父の故郷の長崎で被爆した 前編

九条ブログはらまちNo.141(2010年8月9日)

県立長崎中学校に入学

 私が長崎で原爆を体験したのは十五歳、旧制中学三年生の時でした。
 その前、私は父の勤務地の台湾にいたのですが、どうも台湾の気候が私にはあわないようで、小児ぜんそくにかかっていたのです。それで、家族と別れて私一人が、父の出身地の長崎へ昭和十七年に移り、一年やり直して、県立長崎中学校に入学しました。

上級生のいじめがひどくて

 はじめ学校の寮に入ったのですが、そのころのことですから、先輩の上級生が私たち下級生をひどくいじめるのです。言葉づかいが悪いとか、態度がどうのと殴られるわけです。土曜日の夜は特にひどかった。軍隊の悪い面をそのまま、マネしてるんですね。宿舎に二年の時までいましたが、そんな宿舎生活をかわいそうに思ってくれた父の知人が、その後私を引き受けてくれて、私は長崎市の南の方の中川町に下宿して住むことになりました。

教室はエ場に変ってしまい

 中学校の正式な授業はそのころはすでになくなっていて、毎日学徒動員の作業をさせられていました。中学校の校舎を工場に改造し、三菱造船から機械を持ち込んで、「ナ(まるナ)工場」と呼ばれていました。各種旋盤せんばん、スライス盤、ボール盤などがしつけられ、かつての教室は、油と鉄くずの匂いが充満していました。
 その中で私はターレット旋盤せんばんを動かして、新しく動員されてきた下級生の指導にあたっていました。”びょう”を作るのですが、何の部品かは知らされていません。あとで考えると、特攻艇とっこうていびょうのようでした。今でも旋盤せんばんを見るとなうかしいというか、当時が思い出されます

昭和二十年八月九日、昼寝中に「B29一機が島原半島を西北進中せいほくしんちゅう

 昭和二○年八月九日、その日は三交替の夜勤でしたので、私は下宿していた中川町郵便局の二階で昼寝をしていました。十二時前、下の郵便局で鳴らしていたラジオが、「警戒警報発令、B29一機が島原半島を西北進中せいほくしんちゅう」と何回もくり返し告げていました。
 私は「またか、たいしたことはないな」と思っていましたが、もうすでに私の耳にはいつも開きなれたB29の爆音が「ウォーン、ウォーン」と聞こえてきました。私は立ち上がって窓の方へ見に歩きかけ、空を見たその瞬間、ピカッとものすごい閃光せんこう眼前がんぜんいっぱいに広がりました。

ごう音とともに吹き飛ばされた

 「あっ、目がつぶれた」「私に落ちたのか」と思ったと同時に、ドカーンというごう音とともに、体が吹っ飛びました。本能的に、親指で耳をふさぎ、残りの指で目を押さえて倒れました。これは防空演習でいつも訓練していた格好です。
 家が大きくゆれ、背中の上に屋根瓦や土のかたまりがどんどん落ちてきます。天井板をはずしておいたため、ひどかったのです。

きりのタンスに無数のガラス破片が

 その時の時間は一瞬のようでもあり、長い長い時間のようでもありました。やっと静まり、下の郵便局の局員やお客さんの悲鳴が聞こえてきました。おそるおそる立ち上がってみると、そばにあったきりのタンスに無数のガラスの破片が突きささっていました。
 幸い、私はどこもケガはしていませんでした。すぐに下に降りました。郵便局内はガラスの破片でケガをした人達がうろうろしていましたし、お札(紙幣)が舞いあがりとんでいたことを覚えています。
 誰言うともなく、「横穴防空ごうに逃げるのだ」と言い、表に飛び出しました。爆風によるほこりで街全体がかすんでいます。その中を突っ走って神社にある横穴防空ごうにたどり着きました。近所の人達もゾロゾロと皆避難して来ました。その人達は口々に「うちの裏に爆弾が落ちた」と言っています。私も郵便局の裏に落ちたと思っておりました。それほど衝撃が激しかったわけです。しかし、あとでわかったことですが、四キロメートルも離れた浦上うらかみに、たった一発の原爆が落下傘らっかさんで落ちただけでした。友人には原爆の落下傘らっかさんを目撃した人すらいます。

キラキラとビラがまかれた

 それはともかく、やっと落ち着いて空を見上げると、爆煙ばくえんで太陽がボンヤリと輪郭りんかくがくっきりと見え始めました。きのこ雲が不気味にできていました。そしてそのきのこ雲の間からキラキラというか白く光るものが無数に落ちて来ています。私はそれが今に爆発するんじゃないかと思われましたが、それは伝単でんたん(ビラ)でした。憲兵がすぐに回収してまわりましたが、多数の長崎市民は読んでしまいました。私も読みましたが、こんな内容だったと思います。

『この本日投下した爆弾は、アメリカの優秀な科学者が発明した新型爆弾である。この一発はB29二百(二千か)機の搭載する爆弾の量に匹敵する。早く寛大なるアメリカ政府に降伏せよ』

と。日の丸が表に印刷されていて、良質の紙を使っていました。伝単でんたんは午後の二、三時ごろにまかれたように記憶しているのですが、あるいは私の記憶違いで、九日当日ではなかったかもしれません。

九日夜は防空壕の中で明かす

 やがて、夜になりました。爆心地の火災は街全体に広がっていて、炎は夜空いっぱいに赤々とこがしています。ドラム缶が破裂する音や、建物が崩れる音が、夜を徹して聞こえてきます。一晩中、まんじりともせず防空ごうの中で明かしました。

翌日、伝令として爆心地へ

 翌十日、登校すると救護班が編成され、私は軍の司令部に集められ、連絡係、つまり伝令となって爆心地方面に行かされました。
 長崎駅の大きな建物は跡形もなくなっていました。途中、担架で運ばれるたくさんのけが人や、るいるいと横たわる死人の山、馬などの動物の死体もゴロゴロしていて、今まで全然感じなかった恐怖感が一度に湧いてきました。そういう光景の中で、未だに忘れられないことがあります。

十五歳、父の故郷の長崎で被爆した凄惨せいさんな場面に遭遇した 後編

九条ブログはらまちNo.147(2010年9月15日)

忘れられない兄弟のこと

 それは、顔といわず、胸、腹とグチャグチャに火傷を負った少年二人のことです。小学三、四年生の二人で兄弟のようです。「熱いよう、熱いよう」と叫び続け、母親らしい女の人が懸命にうちわであおいでいます。そしてその傷口にはハエがたかっていて、そこの筋肉だけがピクピクとけいれんを起こしています。ふと、昨日の爆弾でもハエだけは死ななかったのかと不思議に感じました。あの兄弟はその後、亡くなったと思います。
 また、下半身だけの男の死体にも出あいましたし、何人もがまるく車座に座ったままの死体もありました。内臓がはみ出していたり、炭素化して黒くなっているのもありました。担架で負傷者を運んでいるのですが、ピラピラと洋服が垂れているなと思ったのが、実は体の一部の皮膚だったり、無傷でも腹が大きくふくれて死んでいるものもあり、本当にひどいもんです。

生き埋めの学友を救おうと

 原爆投下の翌々日には、Hが死んだ、Nも死んだと、学友の犠牲者の名前もわかってきました。Kという僧侶の子供で同級生がまだ生き埋めになっているという情報が入り、長崎駅の近くの丘の上の方へ向かいました。二十人ほどの生徒が先生に引率されて、スコップをかついで瓦礫の中を進みますが、何回も死体を踏みつけそうになり、そのたびに悲鳴をあげて、先生に叱られたりしました。目的地につくと、幸いKはお堂の下から救出されていました。

瓦礫の浦上天主堂うらかみてんしゅどうでおむすびを

 その後も一ヵ月ぐらいの間に何回か、爆心地にやらされました。金比羅山こんぴらさんから山越えして浦上うらかみへ行き、瓦礫の浦上天主堂うらかみてんしゅどうの中でひと休みし、そこでおにぎりを食べたこともあります。浦上天主堂うらかみてんしゅどうはひどい悪臭がしており、異様な雰囲気でした。食べたおにぎりにしても、バイ菌が入ってしまって自分も死んでしまうのではと、本能的に恐怖感をもったりしました。

たくさんの白骨化した死体 荼毘だびに出会ったり

 前には小川に死体がたくさんあったのに、その後同じ場所に行ってみると、すっかり白骨化していたり。夕方になると、あちこちで死体を焼く茶毘だびに出会ったり。死体には名札なんか付けてはありませんから、誰が誰かわからないまま焼くんです。友人が靴の箱に骨を入れてきて、「たぶん、おふくろの骨だろう」と言っていたり。
 また勇気のある友人は、燃えている最中の缶詰工場から缶詰を取ってきて分けてくれたり、本当にいろんな体験をしました。

八月十五日の混乱ぶり 「日本が戦争に負けたなら、今夜からゆっくり眠れるね」

 そうこうして何日かが過ぎ、下宿の人達も早岐はいきというところへ全員疎開することになり、郵便局にはおれなくなるので、矢上にいる友達のところへ歩いて頼みに行きました。ちょうど友達の家に着いた時、ラジオで天皇の玉音放送が始まりました。戦争が終わったことを知り、あわててまた長崎へ歩いて引き返しました。
 長崎市内に帰り着くと、向かいのお婆さんが私に、「日本が戦争に負けたのは本当か」と聞いて、「本当なら今夜からゆっくり寝られるからね」とつぶやきました。私は、大人はなんて非国民なことを言うのだろうと、その時は思いました。

玉音放送を否定していた軍

 夕方、軍の宣伝車が猛スピードで街を走りまわり、「こちらは西部軍、本日の放送は謀略ぼうりゃく放送なり。我々は最後の一兵まで戦う覚悟なり」と告げていました。それを聞いて、皆、「万歳」と叫びました。
 でも翌日になるとそれはウソで、本当に戦争が終わったことを先生から知らされました。やっと両親や家族に会える喜びがわいてきました。しかし私の場合、実際に引き揚げてきた両親や家族に会えたのは、それから一年半も経ってからのことでした。

幸い被爆していても健康で

 さて、私自身、原爆投下直後の爆心地付近を歩いて被爆しているはずですが、幸いにも後遺症は残っておりません。原爆手帳は持っていて、今でも年二回の検査は受けていますが、別に異状は何もありません。
 ただ、投下後の一週間目ごろに激しい下痢があったぐらいです。また蚊に刺されたあとがグチャグチャになって、なかなか直らなかったこともありますが、それはまあ、当時の栄養状態が悪かったせいかも知れません。薬の力なんか借りないで直しましたよ。

人間の心から起こる戦争

 原子爆弾というものは、自然の摂理せつりに逆らって莫大なエネルギーを生み出すもので、どうも人間の傲慢ごうまんさをあらわしている、非常に危険な恐ろしいものだと考えています。原子核分裂も、遺伝子の組み換えもおなじで、この宇宙や自然や神の摂理せつりに対する人間の挑戦だと思います。人類自らが危機を生み出しているわけです。原水爆によって、また同じ過ちを今繰り返そうとしているのではないか、とさえ思います。
 戦争は人の心の中から起こるわけですから、一人一人の心の問題としてとらえ、隣人どおし仲良く生きるということから啓蒙けいもうしていくべきです。

人間を大事にする教育を

 だから、私は人づくりの教育をもっとめざすべきで、現在の学校教育は勉強で学力をつけるだけでなく、原点として「人間の生き方、あり方」をしっかり教育し、人間を大事にする人づくりができれば、この世界から戦争はなくなると思うのですが。