<おじいちゃんから孫娘へ>
おじいちゃんの家の洋間に、一枚の風景画があります。おむすびの形をした山で、「塩手山」と呼んでいます。
昭和十九年、小学四年生の夏 東京からひとりで相馬に疎開
一九四四年、太平洋戦争が終わる前年、国民学校(小学校)四年の夏休みの時、その山の麓の親戚の家に縁故で学童疎開して来たことが、戦争体験のはじまりでした。
電灯もなくランプでの生活
東京の学校からたったひとりで、相馬の山村の学校へ転校してきました。このあたりはまだ電灯が引かれていなかったので、夕方になると灯油を燃やすランプの生活で、夜は一寸先も見えない闇夜でした。純粋の稲作農家なので、秋の稲刈り時には学校は農繁休業となり、農作業の手伝いをしました。朝夕は農耕用の馬を飼っていたので、飼い葉(馬の飼料)が大切な役目でした。冬休みの宿題は勉強より縄づくりが課せられました。
親元を遠く離れて勉強よりも農作業の手伝い
 親元を遠く離れての、東京では想像もつかない生活ばかりで、珍しいやら、辛いやら、淋しいやらといろいろあって、今の小学生には言葉では説明できない経験ばかりでした。
         それでも、おじいちゃんはまだ親戚の家に預けられ、身内の人々がいたので幸せでした。集団疎開といって、学校ごとにまとまって知らない土地へ疎開した生徒たちは食べるものは満足になく、空腹を我慢して、毎日毎日東京の空を仰いで母恋しく、悲しく、泣いてばかりいたそうです。
緑いっぱいの山々 蝉時雨透き通った川・・・・・
おじいちゃんにとっては、東京では見られない、緑いっぱいの山々や、透き通って川底までみえるきれいな川、野鳥の鳴き声、夏の蝉時雨はとても東京では経験できない、いつまでも忘れることのできない記憶となって頭に残っています。
「自分のことは自分でやる」
 それから、親元から離れて生活しなければならないので、朝起きて夜寝るまで、自分の身の周りのことは自分でしなければなりません。どんなに辛くとも、自分のことは自分でするという人間が生きてゆく上で、最も大切な基本的な生活習慣が身についたようです。
         おじいちゃんは、一九四五年三月九、十日の東京大空襲の時は、幸い東京にいなかったので、B29の空襲の体験は全くありません。父親とか身内の人が出征して、戦死したとかの不幸も経験しませんでした。
より苦しかった戦後の生活
 またおじいちゃんにとっては、戦争中の体験よりも終戦後の体験の方が、深刻な苦しい体験でした。
         一九四五(昭和二十)年八月十五日は、終戦の日です。学校が始まっても、教科書がない。先生もいない。学校へ行っても満足な授業はできません。教科書は先輩から譲ってもらうのですがおじいちゃんには知り合いもいないので、放課後担任の先生の教科書を借りて、それを写して勉強をしました。
         毎日の生活はもっと深刻です。朝起きると何を食べられるのか、食べることしか考えません。隣り近所の人から余った食べ物をもらって口にしたこともあります。人からものをもらうことの悲しさ、辛さを十分に知ることができました。
人一倍勉強しようと決心
 その後、人からものをもらうのではなく、人に与える立場になれないものかと考え、そのためにはどうしたらよいのかと思案したこともありました。お金がなくともできることは何かと、あの頃考えました。その方策のひとつが、他人より数倍努力して勉強することだ、と思うようになりました。
         終戦後の苦しい生活の中で、唯一得られたプラスになったものはと聞かれれば、「ものがなくとも他人より勉強しようと決意したことだ」と今、回想しています。
         そのおかげで、その後大学まで進学して高校教師になれたのではないかと、感謝するようになりました。
         いつも風景画の塩手山を見ながら、昔々の太平洋戦争の頃を走馬燈のように思い出しています。