昭和十六年十二月二十四日、雪の全く無いクリスマス・イヴの日に、私は台湾の台南たいなん市で生まれた。両親共に小学校の教員で、父は現地の子供、母は日本人の子供を教えていた。

戦争に勝つ「勝彦」に命名

 これは全くの偶然であるが、父の名は「秀雄」で、母の名前は「秀子」だったので、私は「秀一」と名付けられる筈だった。ところが十二月八日に対米英戦争が始まるや、当時の戦意高揚せんいこうようの風潮に煽られて戦争に勝つようにと、急遽「勝彦」と変えられた。だから敗戦後原町に帰ってからは周りからよく「負彦、負彦」とからかわれたものだ。とにかく私は誕生の時から戦争の影響を受けたのである。

断片的に覚えていることは

 それはさておき台湾の時代を覚えているかというと、断片的な事しか思い出せない。
 それでも台南たいなん市内が爆撃されて、夜真っ赤に燃えている炎と、防空壕の階段を降りた時、生卵か怪我をした人の血溜なのか、足の裏にヌルッとした嫌な感触を覚えている。(後年、母の話では、私をおぶって防空壕へ向かった時、所々にころがっている死体を飛び越えて走ったとの事である。)
 又、父が召集されて留守で郊外に疎開した時、荷車の様な物に乗せられて、途中どこか大きな木の下で母と夜を過ごした事も覚えている。
 戦争中内地では砂糖等は手に入らなかった様だが、さすがに台湾は砂糖の国で、我が家にも大きな瓶かめにいっぱいの砂糖が配給されてあった。
 ある時、近所に兵舎があったのか兵隊さんが二人来て、おはぎでも作るのか、砂糖を少しいただきたいと言って何とバケツを差し出して持って行った。へらも貸したのだが、返しに来た時何人分のあんこを練ったものか、へらがすり減って丸い部分が半分以下になっていたことを、不思議に鮮明に覚えている。

日本の敗戦、しかし報復もなく

 二十年八月に敗戦となったが、九月には蒋介石しょうかいせきの国民党軍が連合国の一員として日本軍の武装解除のため上陸し、十月からは台湾の実効支配に入った。戦時中日本は中国に侵略し、中国人民に多大の犠牲を強いていたので、台湾の日本人は報復されるのではと心配したそうだが、国民党軍は実に紳士的で安心したということです。

着の身着のままの引き揚げ 貨物船の暗い船底にムシロを敷いて

 そういうわけで、何とか無事に引き揚げ船に乗船できたが、お金は制限され、財産も一人リュックサック一個と決められたそうで、まさに着の身着のままでの引き揚げであった。
 内地まで何日かかったかは覚えていないが、オンボロ貨物船の暗い船底にムシロを敷いて、何百家族と一緒に過ごした事も覚えている。
 二十一年三月二十一日に、広島県の大竹港に上陸したが、そこからの長い汽車の旅と、その汽車の窓ガラス等が無くなっていて、開けっ放しの状態だった事を覚えている。

学生たちが東京駅で「ご苦労様でした」と声をかけてくれた

 これは父の話だがへ長い汽車の移動後、東京駅に着いた時、ホームに東京の各大学の学生達が大勢迎えてくれて、口々に「引揚者のみなさん、御苦労様でした」と声をかけてくれたそうで、「あの時は涙が出る程嬉しく、勇気づけられた」と、後年聞かされた事がある。
 原町に着いた後は、戦後の物不足の中、我が家族もみんなが味わったと同じ様に生き抜き、私も青洟あおばなをたらし腹をすかせながらなんとか成長して来たわけです。

もしも満州にでも行っていたら・・・

 今思うに、あの時両親が台湾でなく満州にでも行っていたら、我が家の歴史も大きく変わっていたかも知れない。日本に帰る途中で殺されたり、家族がバラバラになったり、私自身ももしかすると残留孤児になっていたかも知れない。そう思うと、父も召集されたが台湾守備隊で南方には送られる事もなく生き延びたし、揃って無事に故郷の原町に帰れた事自体がとても幸運だったと思う。

台湾の教え子達と父との交流 台湾での同級会に招待される

 父は召集されたため、昭和十八年に担任をしていた現地人の子供達を卒業させる事が出来ずに別れたままで引き揚げた。その後はお互いに全く消息が絶えたままだったが、父の友人が台湾の教え子に招待されて行ったことがきっかけで、父と教え子との連絡がつき文通が始まり、そして父のもとに同級会の招待状が届いた。
 昭和五十五年十月末に両親が招待されて行ったが、滞在中は正式な同級会や日帰りの修学旅行の他、連日朝から夜まで何人かが顔を出して付きっきりで案内してくれたりの歓待を受けた。(この前後の事は『福島民友』さんが二回記事にしてくれた)
 これをきっかけに交流が始まり、父母は二回台湾へ行き、台湾からは教え子達が団体で原町を訪ねたり、何人かは個人的に我が家を訪れてくれて、交流が深まった。私も現職の教員だったのでその様子を見て、教師と教え子の姿にうらやましさを覚えたものだった。

子供達を絶対戦争の犠牲にはしない

 戦後六十五年、世界のどこかで戦争が続き、何百万の人々が死んでいるが、人類の英知で紛争を解決する道を選んで欲しいし、子供達が犠牲になる様な状況は絶対に作ってはならないと思う。子供達の記憶に戦争にまつわるものを植えつけてははならないと思う。