終戦の時は小学三年生
私は昭和十一年生まれ。終戦は小学三年の時でした。幼いながらも、大なり小なり、戦争の怖さ、辛さ、悲しみなど体験してきています。今になっても、ごく身近な当時の家庭の様子、家族の姿などが、辛く、悲しく思い出されます。懐かしく思うこともありますが。
疎開や引き揚げで大家族に
 我が家は原町区の北原にあり、戦時中は疎開してきた親戚の子ども達で、戦後は外地より引き揚げてきた叔父の家族などとの同居で、一つ屋敷に二十数人の大家族の生活でした。そんな大家族の中では、幼い私の目には見えなかったこと、見えても理解できなかったことなど、沢山あったようです。
         それらのことが、後で自分が母となってから、また、周囲の人達から聞かされてから、漸く、当時の暮らしの大変さ、戦場に息子を、孫を、夫を送った父母、祖父母、義姉などの心境が痛い程分かりました。
         ということで、今になっても時折思い出される当時のこと等、記述してみようと思います。
●大家族の中の母と娘●
『お母ちゃんとお風呂に入った時、お母ちゃんが「お父ちゃんが死なないで帰って来るよう、ノンノ様にお願いしようね。」と窓からお月様を見上げながら、手を合わせて拝んでたので、私も一緒に拝んだ、ということがあった」と姪が語ってくれました。(この時、姪は二歳か三歳、姪の母は二十二、三歳)
●憲兵隊のお兄ちゃん●
 いつ頃からか、何の動機からか、憲兵隊のお兄ちゃん達が訪ねてくるようになりました。日曜ごとに、七、八人連れ立ってやってきて、農作業を手伝ってくれたり、私や姪と遊んでくれたりしてました。
         お昼時になると、中の間に長テーブルを並べ昼ご飯。それはそれは大賑やか。父や母は戦地の我が息子を思い、お兄ちゃん達は、ふる里の父母と重ね合わせ、両者にとっては、いっ時の安らぎだったのでしょうか。
●祖母の陰膳と母の石●
 隠居の祖父母は戦地の孫の無事を祈り、ひもじい思いをしないようにと、毎日、陰膳を作り、一緒に食事をとっていました。
         また母は、いつも、丸い石を手にお風呂に入っていました。それというのは、石を息子と準え、一緒に温めてあげていたということです。
●愛馬の出征●
「馬との別れは辛かった。悲しかった。馬も家族の一員だものね。別れの朝、家族みんなで人参をやった。背中を撫でてやった。馬の目が涙で青く光って見えたような気がした。馬の背に日の丸を掲げてあげた。父ちゃんに手綱を曳かれ、じょうぐちを出て行った。夜ノ森公園から戦場へ送られたんだって・・・。」と母が語ってくれました。
●ヘーロー、ガムちょうだい●
 無線塔下の進駐軍占領時代、進駐軍の兵士達が、私の家の屋敷内にまで入ってくることがありました。初めは怖がって隠れたりしていましたが、だんだん馴れてくると、「ヘーロー、ガムちょうだい。」と手を出すようになりました。
         そんな姿を父はどんな思いで見ていたのでしょうか。
         父は西の山から、松脂を沢山採ってきて、それを火で溶かし、布で漉し、ガムを沢山作ってくれました。でも、それは、とっても苦かった。
         それ以来、私も姪も「ヘーロー、ガムちょうだい。」は止めました。
●二人の兄、帰る●
        兄は十八歳で満鉄から出征 終戦でシベリアで四年間捕虜に
         何の前触れもなく帰ってきた二人の兄。上の兄は、終戦後間もなく、元気に米とチャイナ服をみやげに帰ってきました。
         下の兄は、シベリア引き揚げ最終船で帰ってきました。舞鶴港から家までどのようにしてきたのか、ひっからびた蛙のような姿で、戸口に現れた時、待ちに待っていた我が子の帰りだとだれが思ったでしょう。兄も、家族もしばらく呆然と・・・。我が子の帰りだと納得するまでには、しばし時間を要したと聞きました。
         それもそのはず。その兄は十八歳で満鉄へ、そしてそこから出征、戦場へ・八ヵ月の軍隊生活。終戦と同時にシベリアで捕虜となり四年間。親元から離れて何年になっていたのでしょう。約十年間、一度も会うことはなかったのですから。
軍隊生活や捕虜時代のことを一切語らなかった兄
その兄は、軍隊生活、捕虜時代の事は一切誰にも語らなかったそうです。兄の死後、遺品の中から、当時の回顧録めいたものが見つかったそうです。それには、当地での苛酷な労働、飢えと疲労、寒さなど、言葉に絶する程の生活ぶりが書かれていた、と涙ながらに義姉が言っていました。
●『異国の丘』● 蓄音機で皆で黙って聞き入る
いつの頃からか、『異国の丘』のレコードを聞くのが我が家の日課の一つになっていました。夕食の後、父が蓄音機のハンドルを廻し始めると、母は勿論、家族全員寄っていって『異国の丘』に聞き入りました。誰一人、口ずさむことも無く。それぞれの立場で、それぞれの思いで、息子、夫、兄の無事の帰りを信じながら聞き入っていたのでしょう。
正月のいとこ会では涙の大合唱に
 我が一族は、毎年正月三日、いとこ会を開いています。今年は二十三回目です。いつも会の中で、誰とはなしに、無事帰ってきた兄を中心に肩を組み、『異国の丘』を歌い出します。
         それが一人二人と広がり、二番頃になると、四十数人が肩組み合って大合唱となります。歌っているうちに、みんなの笑顔が歪み、涙声になってきます。こんな平和な時が持てるようになったという喜びからなのでしょうか
         その兄も、七十五歳で他界。そのようなシーンは、過去のこととなってしまいました。
●終わりに●
こうして戦場でも、戦場へ送り出した家庭でも、それぞれの立場で家族を思い、辛さ、怖さ、悲しみを乗り越えてきたのです。
殺人や戦争美化の風潮ですが 「子ども達を戦場に送らない」
 これから先、こうした戦争を知らない子ども達を、戦場へ送るような事態が決して起きませんようにと、願うばかりです。
         今、雑誌、テレビ、ゲーム、おもちや等々で戦争を美化するような殺人や暴力行為などの報道のなんと多いことか。このような報道から、子ども達は日常生活の中で、知らず知らずのうちに、暴力肯定らしき影響を受け、殺人や暴力の方法を知り、恐ろしい行為となっているような気がします。
         戦争のない平和な世であるためにも、是非このような類のテレビ放映、出版などの禁止、制限があって欲しいと思う此の頃です。