東京が空襲に遭うなんて 1.国民学校
 昭和十九年、私は東京の滝野川国民学校の二年生でした。私は東京生まれではありませんが、父の仕事の関係でそこに住んでいたのです。と言いましても私が物心のつく頃は、父は兵役についていて、母と弟、妹の四人で暮らしておりました。
         その年の三月頃だったと記憶していますが、初めて東京空襲というのがあって、双発の飛行機が一機だけ機銃掃射をしながら家の上を飛んでいきました。ガラス窓ががたがたと揺れたのを覚えています。飛行機が去ってしまった後で空襲警報のサイレンが間延びしたように鳴りました。東京が空襲に合うなどとほとんどの人が考えていなかったのでしょう。戦局が傾いていることなど知らされていなかったのです。
         その頃から学校では防空演習というのが頻繁に行われるようになりました。「空襲警報発令」と先生が叫ぶと生徒たちは皆机の下に伏します。つづけて先生が、「敵機はただいま房総沖より来襲中」などと言うのですが、なにしろまだ二年生ですから仮想と現実の区別がついていませんので、私はただただ恐ろしかったという印象しか残っていません。
ある日突然大熊町に疎開 2.疎開
 ある日の授業中、教室の前の戸が開いて、なんと田舎の叔母さんが現れました。そして先生に何か耳打ちをしました。すると先生が私を教壇のほうへ呼び寄せ、生徒たちのほうを向かせました。先生が言いました。「今度、吉田君は疎開をすることになった。」
         こうして私はあっけにとられながらこの学校を去ることになったのです。たまたま上京した叔母と母との間で、長男である私くらいは田舎においておこうというような話になったのでしょう。その田舎が現在の場所で、当時は祖父母が住んでいました。
         熊町(現・大熊町)国民学校二年に編入しました。その頃は男女別学で、もちろん私は男子クラスでした。
         しかし学校に行ってびっくりしました。洋服を着ている子がいないのです。皆膝までの長さくらいの和服なのです。勉強道具は風呂敷に包んで肩に斜めに背負っていました。暗い時代ではありましたけれども東京ではまだ粗末な生地ながら洋服、半ズボン、長い靴下、革靴、草履袋というのが通学の服装でした。私はそういう服装で、和服の子供着ばかりのなかに登校して行ったのですから、彼らにとっては異星人のように見えたのかもしれません。私は格好のいじめの対象になったのです。
間一髪で東京大空襲を逃れる 大熊町にもグラマン戦闘機が 3.空雲
 昭和二十年三月十日は、いわゆる東京大空襲の日でした。私の母たちはその一ヵ月前の二月九日に田舎に引き揚げました。まさに間一髪というところでした。私の家のあたりは焼け野原ということでしたので、残っていれば命はなかったわけです。
         ところが昭和二十年八月九日、十日、熊町の我が家の北側の高台にある飛行場が攻撃されたのです。飛行場といっても小さな練習飛行場で布を張った二枚羽根の飛行機がありました。その二日間でそこは兵舎も格納庫も含めて全滅したのです。黒色の夥しい数のグラマン戦闘機が見事な編隊を組んで縦横無尽に飛び回って攻撃を繰り返しました。
         我が家の庭にも空になった薬莢が何本も落ちました。このような田舎が空襲に遭うわけがないと思っていましたので、村人たちは皆その空襲を見ていたのです。そのため機銃掃射の犠牲になられた人もおりました。そしてその二日間の空襲が終わってから山の洞窟のような場所に逃げました。
捕虜になった父の生還は奇跡でした 4.父のこと
 父は現在九十八歳。前にも書きましたように私が物心のついた頃は兵役についていて満州にいました。その父が昭和二十年二月に奉天で戦死した戦友三名の遺骨を博多に届けるために帰国しました。その帰途、わが家にも寄り三月にまた満州に戻りました。
         その五ヵ月後が終戦、父はシベリアに捕虜として抑留されました。炭鉱で石炭を掘る強制労働に従事させられたのですが、捕虜ですから安全対策も杜撰です。毎日落盤が起こり同胞が犠牲になっていく中で、それほど頑健でもない父が生き残ったことは殆ど奇跡に近いものだと思います。三年後の昭和二十三年九月二十九日に帰国しました。それを見届けるように祖父はその一ヵ月後に他界したのです。
「中国に兵なりし日の五ヵ年を
しみじみと思ふ戦争は悪だ」
宮 柊二
5.短歌のこと
 退職後、短歌の会に入会しました。今新アララギという結社に属して頭の体操をしています。原町区にも奥山隆さん率いる「原町短歌会」、遠藤たか子さん率いる「あんだんて」というグループがあってそれぞれに活躍しておられます。
         つい先年亡くなられましたが、宮 柊二という歌人がおりました。この世界では大変有名な歌人で、日中戦争に従軍したと聞いております。その方の短歌に「中国に兵なりし日の五ヵ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ」という歌があります。抒情とリズムを重視する短歌において、「戦争は悪だ」というこの結句はまるで絶叫です。しかし戦争という不条理のなかに身をおいたこの歌人が、こう歌わねばならなかった心情を私たちは理解できると思います。
         毎年八月になると短歌の雑誌や機関紙には戦争にかかわる歌が多くなります。それは短歌の世界でも高齢化が進んでいるということもありますが、戦後六十五年経ても戦争を引きずって生きている人が多いということでもありましょう。未熟ですが、私もまだ頭にこびりついている戦争にかかわる歌を七首列挙してこの稿を終わりにしたいと思います。
八月のまた巡り来てグラマンの
黒き機影の眼裏にたつ
遠き日は空襲ありき原発の
広き構内に桜咲きをり
盆踊りに興ずるひとらけふの日を
終戦の日と知るはいくばく
六十年経てなほ父はシベリアの
抑留を詰る露助と言ひて
修身とふ授業もありき
「日本は神の国」とぞ師は教へ給ふ
幼くて大陸の地より引き揚げし
友は君が代を遂に歌はず
玉音の流るるかの日眼裏に
今も残れる百日紅の朱