●私の生い立ち 昭和十八年、満州で生まれて
 私は昭和十八年十一月十八日、中国の東北部、満州国とよばれていた四平街(現在の四平市)で生まれました。父は広島出身で満州鉄道に勤務し、母は原町出身でした。私は男五人、女二人の七人兄弟の三男の九人家族でした。
         誕生から二十一ヵ月後に終戦となりますが、父はソ連に物資を送ることを命じられ、家族全員が日本に帰国出来たのは終戦から一年後となったそうです。物資を送る命令に従えば責任を持って安全に帰国させると言われたそうですが、信用できないものの従うほかなかったそうです。
         でも、敗戦国になった日本人で、命からがらでもなんとか無事に帰国できた方はとても幸運で、途中で命を投げ出す方も多く、子供連れで万やむをえないで中国人へ預けられた方も多く、それが現在の残留孤児の方々です。
引揚船の底冷えの船倉の中で
帰国の時の私は三歳近くでしたので、母はいつ逸れてもよいように、名札と餅米の粉(お湯で溶かすと餅状近くになる)を背中にくくり付けておいたそうです。満州国で生まれたのは、長男、長女、次男、私、四男でしたが、母のお腹の中には二ヵ月後に生まれる五男がいました。「引揚船の船倉の底冷えする中で苦しくて大変だった、二度とあの思いはしたくはない」というのが、今でも母の口癖です。
●日本での苛酷な生活 広島県の山奥の父の実家へ
 親子で日本に引き揚げる上陸先は、九州でした。そこから父の郷里の広島まで、すし詰め状態の列車で、逸れないように私を紐で結んで移動したそうです。上陸した九州で、食糧を求めるために持っていたあらゆる金目の物を使ったと聞きました。
         一年前に原爆投下された広島から、芸備線に乗り換えて中国山地のど真ん中の備後西城(現在の庄原市西城町)に向かいました。私が広島に原爆が投下されたことが分かったのは、ずっと後の原町に行くころだったと思います。
         それからの生活は散々でした。父の本家から山奥のわずかな田と山地と小さな家、家の中は畳ではなくムシロゴザでした。・・・先日郡山市の文化遺産安積開拓入植者住宅で、よくこんな生活ができたものだと涙が出ました・・・。さらに家には隙間が多く、夏は良いのですが、冬は寒かったことを今も思い出します。
         開墾して畑を耕しますが、父も母も農業をやったことがなく、近くの優しい農家の方々に聞いたり、本で勉強して栽培をしたそうです。食べ盛りの子供たちが六人もいるので、常に米櫃は底をついて、本家に貰いに行ったり、近所に借りに行ったそうです。
食い扶持減らしのために私と弟は母の実家の原町へ
どうしても暮らしが苦しく、ついに私と末の弟の二人は、食い扶持減らしのために昭和二十三年春頃から小学校に入学するまでの二年間、お袋の故郷原町の本町の実家に預けられたのです。実家も決して生活は楽ではなかったはずですが、私としては原町は素晴らしく居心地の良いところでした。
朝日座でのチヤンバラ映画の思い出
それは娯楽の殿堂だった「朝日座」で観た映画の数々、特にチャンバラの時代劇のこと、それが現在の映画好きのベースになっています。また旭公園やよつば公園で暗くなるまで遊んだことを思い出します。原町のおじいちゃんやおじさん、おばさん、いとこのみんなに今でも感謝でいっぱいです。
広島に戻ってランプの生活 薪を作って町へ売りに行ったり
小学校に入学する頃、再び私たちは原町から広島に戻りました。子供も「働かざる者食べるべからず」で、とにかく働きました。小学校までは片道一時間近くあって通うのが大変でした。その上、自宅はその村の一番奥で、一番近い隣家で五百メートル近くあって、電気の引き込みにはお金がかかりとてもではなく、ずっとランプ生活でした。燃料の石油を町で一升びんに購入して、壊さないように持ち帰ることは大変で、他の子供は遊びながら帰れるのにと、羨ましくてなりませんでした。
孫たちには悲惨な生活はさせたくない
 冬になると山に入り、針金一本で薪を束ね、それを荷車に山積みにして、頼まれていた町の方々に売りに行ったりしましたが本当に大変でした。でも知っているお店に立ち寄ってキャラメルやバナナ菓子を買い、その味は言い尽くせない喜びでした。
         偉ぶるわけではありませんが、苦境でも裕福な家庭の者に負けないようにと、兄弟競い合って試験近くになると戸板を机にして頑張りました。学年別でも当時は生徒数が多く、四十人以上のクラスが4クラスあった中で、常に十番以内を堅持しました。
         そのほか、とても言い尽くせないほど大変なことをたくさん体験しましたが、すべて戦争のせいです。今後このような悲惨な生活は、孫たちには決して合わせたくないものです。
●戦争の悲惨さ
 私が少し大きくなった頃、年上の人に聞いた話として、「戦争に負けると、勝利国の侵入者によって家族を分離されたり、辱めを受けたり、乱暴されて死地に追いやられるのなら、自決すべきではないかなども考えた」と聞きました。
         でも、日本がアジア各国に侵略したてその国の方々に悲惨な思いをさことには、正直言って悲しいし、悔しくて、そんな国策を招いた人達や事態を決して許してはなりません。
戦争をなくすには全人類が武器を持たないことです
 今も地球上のどこかで戦争により悲惨な出来事が起きていますが、直ちに全世界、地球上の争いはなんとしてもなくさなくてはなりません。博識ある生き物の頂点にある人類は、きっと克服できるはずです。心のよりどころになるべき宗教の違いや、やったからやるという報復だけではいつまでも戦争はなくなりません。
         戦争をなくすには、「全人類が武器を持たないこと」だと私は考えています。どうしてこんなことができないのでしょうか。
●私も残留孤児に?
私もひとつ間違えば、きっと残留孤児になっていたのではないかと思います。今の私の幸せに心から感謝しています。残留孤児が生まれた責任はどこにぶつければよいのか。今でも世界のどこかで孤児が生まれていますが。
●真実を知り、孫たちに戦争の悲惨さを伝えたい
直接の出兵経験などがない私としては、歴史の真実を知りたい。先日も元幕僚長田母神氏の講演を聞き、「あれ!以前見たものや聞いた話と違う」と思いました。ですからこれは歴史の真実だと思うことはDVDにとっています。それを活用して、孫たちに戦争の悲惨さを伝えていきたいと考えています。
●尖閣列島問題には
不謹慎かも知れませんが、今回のビデオ遺漏者の肩を持つのではないのですが、武器を持たない、国力のない日本としては、秘密にしないで、直ちに世界に発信して全世界の方々に判断してもらうことが良いのではないでしょうか。
●国際協力は教育の面で
ODAなどですぐに日本は金銭や物資を送り、特定の政権に回って有益な貢献になっていないことが多い。それよりも「教育」の面で立派な人材を育てることが最良の方法と考えていますがどうでしょうか。