満州で生まれ七歳まで生活した

 私の両親は原町区出身ですが、父は旧満州国の熱河省ねっかしょう(現在の内モンゴル自治区)の赤峰せきほうという都市の観象台(気象台)に勤務していました。私は昭和十三年三月十二日、その赤峰せきほうの官舎で生まれました。
 満州での生活のことも、敗戦による日本への引き揚げの様子も、本当にこの『漫画展』の一枚一枚の絵と全く同じで、同様の体験をしてきました。
 『漫画展』会場で満州時代や引き揚げの絵を見ていると、まるで自分が当時に戻ったような錯覚に陥り、二日間も通い絵に見入りました。

ダルマストーブで大豆を焼いたり

 まず戦前の食べ物の話になりますが、大豆についての思い出があります。
 満州の大地では一面大豆畑が広がっていましたが、収穫後、畑のあちこちに大豆の殻の山ができていました。でもその山をかき分けると取り残しの大豆を見つけることができます。そこで子供たちがきそってその貴重な大豆を見つけて拾いました。一人せいぜい十粒位だったと思います。
 そしてその大豆をダルマストーブの上に置き、焼いて食べたりしました。でも大生の子ども達が一つのストーブの上に自分の大豆を並べ、焼いて食べるのですから一人一個しか置けず、焼けるのを待って食べるのです。ところがストーブが揺れて大豆がこぼれると「これはおれの大豆だ」と奪い合いをしたこともしばしばでした。

父は一時ソ連兵に連行される

 昭和二十年八月十五日、私が七歳、小学校二年生の時に終戦になりました。満洲国は消滅し、それから日本へ帰国(「引き揚げ」)するため、命がけの体験をすることになります。
 日本の敗戦とともにソ連(ロシア)軍が侵入してきて、日本人の男をシベリアの労働力にするためトラックに強制的に乗せて連れ去っていきました。私の父もトラックに乗せられますが、そばにいた私も一緒に父について乗りました。しばらく走ってから「子供はいらない」と私はトラックから降ろされました。
 父のことを皆でとても心配しましたが、幸いなことになぜか父はすぐに解放され家族と合流することができ、一緒に引き揚げることになります。

引揚げの途中二人の弟が死去

 当時の私の家族は、この<赤塚不二夫の絵>と全く同じ姿で引き揚げました。父、母、私、妹、弟、そして母のお腹の子(弟)でしたが、引き揚げる途中で二人の弟が亡くなります。現在、その埋葬した所には大きな慰霊塔が建っているそうです。

両親は貴重品を食糧と交換

 満州は終戦前は日本人が支配していましたが、終戦後は立場が逆転し中国人が上となり日本人が支配され、食料を獲得することも難しくなりました。父も職を失い、豆腐を仕入れて売っていたことも覚えています。
 引き揚げはまず収容所まで歩いて行きました。持てるだけの荷物を持って、金目の物や万年筆、墨などの貴重品は中国人に奪われてしまうので、両親は体に隠していました。父は腕時計を足にはめて、母は髪の中に指輪などを隠していました。
 そして時々その貴重品を売って、乾パンなどの食料を買ったり交換したりしました。とにかく食べ物を獲得することが何より大切で大変なことでした。

「人さらい」にさらわれた私

 引き揚げの列車に乗る前、家族と逃避行でテクテク歩いている時、中国人たちが日本人の子供を連れ去っていく、いわゆる「人さらい」が私たちを狙っていました。日本人の子供は頭が良いし、よくまじめに働くし、労働力としてもいいと思われていたそうです。
 実は私も一度、「人さらい」にさらわれたことがあります。その時、妹と弟が「お兄ちゃんがさらわれた」と騒いで教えてくれて、両親や他の日本人が奪い返してくれました。もしもそのままになっていたら、今頃私は中国に住み、日本の本当の両親探しをしていたかもしれません。
 でも力尽きたり、子供を連れてくることが出来なくなり、本当に困った日本人の親の中には、我が子でも殺してしまったり、中国人に預けたりしました。それが残留孤児ですが、今さら名のることのできない悲しい親も相当いるような気がします。

屋根のない引き揚げ列車に乗って

 どこの駅から乗ったのか分かりませんが、この<森田拳次の引き揚げ列車の絵>と全く同じで、引き揚げ船が出る「葫蘆コロ島」まで列車に乗りました。
 屋根のない荷物を運ぶ貨車(無蓋むがい車)に、引き揚げの日本人がびっしりと乗っています。私たちは貨車の端っこに乗っていました。何日間かかったかはわかりません。走ったり、停車したりで、「本当にこの列車は港まで行くのかな」と不安でした。
 時々列車が止まり、野宿したこともたびたびで、火を炊いて何か食料を準備したようでした。星空が大変きれいだったことを覚えています。
 何日かかって港の「葫蘆コロ島」にたどりついたのか、よくわかりませんが、数ヵ月かかったような気がします。一緒にたどり着いた日本人は皆幽霊のような姿でした。

葫蘆コロ島から引揚船に乗る

 満州の南端の港が「葫蘆コロ島」で、引揚げ船はこの<ちばてつやの引揚船の絵>と全く同じで、とても大きな貨物船でした。

亡くなった小学生の姉妹のこと

 私たちは船底に家族でまとまっていました。隣に両親のいない小学生の姉妹が乗っていました。しかし船の中で飢餓きがのためか、二人とも死んでしまい、口や目や鼻からウジが出ていたことを覚えています。姉妹は白布に包まれ海葬かいそう(水葬)で海に投げられました。

日本の美しい山野に感動

 そして「葫蘆コロ島」を出航して四日間位で佐世保港に着きました。私が生まれて初めて見る日本ですが、緑に包まれた山々とさつまいも畑も本当に美しく、大変感動しました。
 上陸した佐世保でお風呂に入り、頭から全身にDDTをかけられました。その後、汽車で原町に向かいました。原ノ町はらのまち駅から歩いて初めて父の実家の高平まで行きました。途中月がとってもきれいだったことを覚えています。

弟の慰霊のため中国を訪ねたい

 私は満州で生まれ育ち、日本に引き揚げてから、その後一度も中国を訪ねたことはありません。
 でもこの『漫画展』を見てから、中国を訪ねて引き揚げの途中で亡くなった二人の弟をとむらいたいと思うようになりました。『漫画展』は大変いい企画で、開催していただき、感謝しています。