福島県南相馬市から憲法9条を守り、戦争反対・脱原発を訴える

私の戦争体験

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宮城開拓団として入植

九条ブログはらまちNo.181(2012年1月22日)

 私は昭和九年七月二十八日、宮城県角田かくだの農家に生まれ、今年七十八歳になります。子供の時代満州国に渡り、命からがらの引き揚げで、様々な地獄を見たり悲惨な体験をしてきました。

昭和十三年、四歳の時 満州に渡る

 昭和十二年三月、父の木村忠志は宮城県開拓団の先遣せんけん隊として満州国に渡る。翌十三年二月二十八日、母のマツイと四歳の私、弟の雄志は、新潟港から出航し、朝鮮の釜山プサンに上陸して渡満とまん
「満州国三江省さんこうしょう鶴立県連江口かくりつけんれんこうぐち第六次宮城開拓団仙南屯じょうかいたくだんせんなんとん」に入植しました。
 入植した所は、満州国のずっと北部で松花江しょうかこう(ソンホワ川)の上流、ロシアとの国境に近い「鶴崗かくこう(ホーカン)炭田たんでん」の東付近でした。

妹二人が誕生 弟は赤痢せきりで死去

 昭和十四年五月三十日妹の芙美子ふみこが生まれますが、八月には弟の雄志が赤痢せきりにかかり避病院ひびょういん(伝染病の隔離病院)で亡くなります。そして昭和十七年四月八日、妹の睦子むつこが誕生します。
 私達家族はクリ(人夫)頭のワンさん家族五人と、小核ショーハイ(男の子)と一緒に住んでいました。満人の子供達は私を、「モ-ツオン・ヨンス(木村英子)」と呼んでいました。小核ショーハイ(男の子)は私と同じ年で、父が小盗児ショウトル市場(泥棒市場)から拾ってきた親のいない男の子でした。

国民学校の寄宿舎は寂しくて

 昭和十五年四月、私は東京の伯父が送ってくれたセーラー服を着て、宮城開拓団国民学校に入学し、一年生から寄宿舎に入りました。他の人は兄姉がいても、私が一人なので毎日寂しく泣いていました。父が開拓団本部の購買部に勤めていたので、帰りを待って「家に帰りたい」と言って父を困らせてました。
 毎年九月に父は、露天掘りの鶴崗かくこう鉱山に石炭掘りに行きます。父はワンさんにクリ(人夫)を集めるように指示し、ワンさんは満人部落の金山屯キンザントンから何人もクリを連れてきます。開拓団員はいくら掘っても無料で、一冬の燃料にするのです。

子どもたちに優しかった父

 昭和十九年の八月頃、私と父と芙美子ふみこの三人は、馬車で連江口の松花江しょうかこう埠頭の市場に行き、合作舎がっさくしゃ(農協)に寄り、酒店(食堂)でサイダーと肉の饅頭を買ってくれました。私はサイダーを飲むのは初めてでした。饅頭は熱いので父は、手拭いにくるんで芙美子ふみこに持たせますが、芙美子ふみこは目を丸くして食べずにいつまでも持っていたことを覚えています。父は特に芙美子ふみこを可愛がっていて、夜はだっこして寝ていました。ヒゲを触るとザラザラして安心して眠ったそうです。
 また父は、仔馬こうまを大きく育て関東軍に供出きょうしゅつし、関東軍から褒美として、食油、タバコ、角砂糖、酒等々をもらい、それで父は満足していたようでした。

終戦一ヵ月前 父に召集令状

 昭和二十年七月、父に召集令状が来ました。「到頭来たか」と両親は肩を落としていました。一年過ぎても除隊しなかったら、また戦死したら子供達を連れて内地に帰るように、農業日記や国境警備報告書などを形見として用意してありました。
 戦争が激しくなり、スパイやゲリラ、馬族がうろうろしているので、父はそっと七月二十二日に、百円札を三枚持って出征しゅっせいしました。母は泣いていました。

八月十日、ソ連兵が攻めてきた

 昭和二十年八月十日、朝八時に「十日分の食糧を持って本部に集合」の命令出た。九時には「一ヶ月分の食糧」と言われ、只事ではないと感じた。母と私は地下室に蒲団や着物、ランドセル等含を入れた。その時は戦争に勝って帰れると思いました。
 班長さんが大声で「急げ、十里後までソ連軍の機械化部隊が攻めて来ている。早くしろ、急げ」と騒ぎます。人殺しや強姦、略奪、拉致、何でもありのソ連兵です。  人夫頭のワンさんが六頭引きの馬車を仕立ててくれました。米、味噌、それに反物を馬車に積み、それに雄志ちゃんの位牌と、村田銃二丁も頼みました。芙美子ふみこは幼児の平呂(ベーロ)を馬車に乗せろと泣きわめきました。

逃げ込んだ開拓団本部はすでにもぬけの殻

 開拓団本部に着いたのが昼頃。本部も守備隊ももぬけの殻でした。日本兵か八路軍かわからない二人の兵隊がいて、十五歳以上の男子は残された。私達仙南屯の十二家族は老人と女子供四十名は、班長さんを先頭に先に行った馬車の跡を西に進みました。一時間位行ってから振り返ってみると、本部守備隊や学校、神社、寄宿舎に火柱が上がっていました。

「急げ急げ」 十一歳の私は三歳の妹を背負って逃げた

 「急げ、急げ」と班長さんが怒って松花江しょうかこうの支流を何本も渡った夕方、大きな支流に阻まれ、馬車を断念、王さんを帰すことにした。「モーツオン(木村)ヂャングイ(旦那様)、タイタイ(奥様)、タターテンホー(大変いい人)、シイーシイー(ありがとう)、サイチン(さよなら)」と何度も礼を言って帰っていった。
 母は家族皆んなのえりすそに札(紙幣)を縫い付けたり、雨カッパを破いて札を包み、飯盒はんごうの味噌の中に入れた。郵便貯金通帳や合作舎の定期証券は母が持った。村田銃はここで捨て、母は食糧、着物、毛布などを背負った。十一歳の私は三歳の妹の睦子むつこをおんぶした。

ソ連軍の侵入 地獄の逃避行

九条ブログはらまちNo.185(2012年3月23日)

満州人に襲撃されそうになるが

 翌日の八月十一日、満人部落に着いた。睦子むつこの足は傷だらけで真っ黒になっていた。飲まず食わずで一昼夜逃げ回り、何里歩いたのだろう。満人に鍋を借りてご飯を炊き、生味噌で食べました。その夜は四人で抱き合って寝ました。
 八月十二日早朝、「皆んな起きろ、襲撃だ、逃げろ」と班長さんが叫んだ。母は芙美子ふみこの手を引いて「母ちゃんの手を放すな」と言っていた。十一歳の私は三歳の妹の睦子むつこをおんぶして頭から二人で風呂敷をかぶった。
 外に出ると、満人四、五十人がくわ天秤棒てんびんぼうや石など持って口々に「リピリングイズ(日本人鬼)マラカピィー(こん畜生)」と言って襲おうとしていた。でもこの時は、班長さんと高等科の人ら四人が村田銃を持っていたので、助かりました。

ソ連の戦車が日本人をひき殺す 野宿して草の根や、ミミズを食べたり

 夜は狼に怯え、流れ弾が飛んでくる満州の広野や湿地を無我夢中で逃げ回りました。私達はコウリャン畑に逃げましたが、逃げ遅れた日本人の女、子供、老人を、ソ連の戦車が轢き殺して行きました。私達は恐怖のあまり、腰を抜かして立っていることが出来ませんでした。
 野宿の時は、火は使えないので、草の根、ミミズ、生米、生コウリャンなど何でも食べ、生味噌をなめ、川の水を飲んで夜を明かしました。四方八方敵ばかり、いつ殺されるのか、恐怖で歩くのが精一杯でした。

八月十三日福龍駅にたどり着くが列車は止まらず通過するだけ

 八月十三日の夕方、福龍駅に着きました。鉄道はハルビンから綏化すいか(ソイホワ)経由の鶴崗線かくこうせんです。駅には開拓民が三、四百人位ホームにいました。宮城村の人達や、松村医師もいて安心しました。母は飯盒はんごうでご飯を炊きました。
 列車は何本も通っても止まってくれません。しかし客車には、軍、役所、軍属関係の家族が乗っていました。
 夜になり、ホームに草を敷いて寝ました。汽車の通る音で目を覚ますと、夜露よつゆで体が濡れていました。家財や食糧を馬車で駅まで持ってきた人達が捨てた梅干しを拾い、それを入れてフキの葉を焼いて、母はおにぎりをいっぱい作りました。
 子供や老人の死体があちこちに捨てられていることが多くなりました。親とはぐれる子供、病気の人、怪我人も沢山いました

男は殺され、女性は強姦や拉致も

 八月十四日、福島・山形開拓団の人達が、一日遅れで着きました。満人に銃や持ち物を略奪され、男子は殺され、女性は強姦され、若い女性は拉致されたそうです。怪我した人や、血だらけになって日の丸の旗を肩にかけている人、日の丸の旗を振ってふらふらになりながら福龍駅に着いた人もいました。
 私達は一日早く逃れてきたので、そこまで悲惨な目に会わないですみました。

「幼児は青酸カリで殺す」と

 私達はまだホームにいましたが、米は二升位になり、味噌はかびてしまったので捨て、塩だけにしました。
 松村医師が宮城開拓員を集めて「これから先は、山を越え川を渡ってハルピンまで歩く。五歳以下の子供は無理だから、青酸カリを注射して殺す」と言った。私の二人の妹も対象になります。母親達は勿論、猛反対し、行ける所まで行ってそれで駄目なら親の手で殺して自分達も自害する、ということになりました。

「最後の上り列車だ。乗りなさい」

 午後四時頃、ホームに貨物列車が停車した。日本人の満鉄駅員が「この貨物列車が最後の上り列車だから乗りなさい」と言う。荷物の上に綱が張ってある無蓋車むがいしゃ(屋根のない貨車)でした。急いで乗りました。「綱にしっかりつかまっていろ」と母は泣き声で叫んでいた。
 ホームには捨てられた子供や老人、病人、歩けない人、怪我人、赤ちゃんが何人も置き去りにされました。

目の前で満人との殺し合いが

 山岳地帯に入る一歩手前で列車が止まりました。線路に石や材木を置いてあり、満人が襲撃しようとしたのです。大人達が障害物を取り払っていると突然、軍服を着た日本兵二人が日本刀で満人に斬りかかりました。満人五、六十人は石や天秤棒てんびんぼうくわで反撃に出て、二人の兵隊さんは殴り殺されました。部隊からはぐれた若く階級の低い二人の日本の兵隊さんが私達を助けて犠牲になったのです。名前も出身地も分かりませんでした。
 列車は発車し、夜になり雨が降ってきました。綱とシートをはいでみたら電球が入った木箱がありました。私はそこにもぐって眠りました。

八月十五日、終戦の日のこと

 八月十五日午前一時頃、南岔ナンサア駅に着きました。列車から降りると、雨は降るし流れ弾は飛んでくるし、班長さんが「このタイマツに続け」と大声を出しますが、私達女、子供、老人は何十本もの線路を渡ることが出来ませんでした。進むのを断念し引き返しました。南岔ナンサア駅は日本の材木会社が材木を運搬するために線路を何十本も作ったのです。

貨車に轢かれて何人もが死んだ

 私達は雨を避けて弾よけのため、乗ってきた列車の下にもぐりこみ、皆んなで線路に腰をおろしました。私達家族は雨もりがするので皆んなから離れて、枕木に腰掛けました。
 すると突然、機関車を外すために車輪が一回転した。母は大声で伏せろと叫んだ。芙美子ふみこ睦子むつこは伏せたそうですが、私は逃げようと線路に手をかけ、後一センチの所で車輪が止まりました。満鉄の線路は三十センチも幅が広いことを知っていて、伏せていると助かるということでした。
 線路に腰をかけた人達は、将棋倒しになり、たくさんの人が亡くなり、私達は地獄を見ました。雨が降っていた闇の中から「助けて、助けて」「人殺し、痛い、痛い」といういろんな声が聞こえました。松村医師を捜しましたが、いませんでした。別の軍医が来て応急手当をしてくれました。
 兵隊さんが来て、貨車の下から死体を出してくれ、母と渡辺きつよさんと二人は、担架で南岔ナンサア駅の土手に死んだ人たちを埋葬した。
 やがて母は飯盒はんごうでご飯を炊き、塩で食べました。危機一髪で命が助かりましたが、弟の雄志ちゃんの位牌に向かい、家族を守ってくれて有難うと拝みました。

私たちは国、関東軍に見捨てられた

 私たちはこんなに地獄を見ながら逃避行を続けているのに、責任者の開拓団団長の長岡亀三郎はもう一年前に内地に帰っているし、開拓団本部の幹部や校長や先生方の姿は見えなかった。結局私達は国、関東軍、宮城村に見捨てられたのです。

日本兵はソ連の捕虜として北へ向かう

 一方私たちの列車の方向とは反対に、兵隊さん達を乗せた無蓋車むがいしゃは北のソ連の方に向かって行きました。
 その時私達はまだ、敗戦を知らなかったのですが、兵隊さん達は敗戦を知っていたのか、ソ連の捕虜になる運命を悟っていたようで、皆んな下を向いて泣いていました。

地獄のようなことが次々と

 八月十六日の朝、十五歳から二十歳の青少年義勇軍の若者達が無蓋車むがいしゃでバックして来ました。怪我をして血だらけになっている少年、息絶えている人、うわごとを言う少年もいた。八路軍と満人に、山から材木や石を落とされ襲撃されたのです。
 疲労と恐怖、空腹、精神的にもまいっていた母親、おんぶしたまま赤ちゃんを窒息させる親、子供を捨てる人、満人に子供と食べ物を交換する人、死んだ赤ちゃんをいつまでもおんぶしている母親もいました。五歳の孤児が、一家の全財産の現金と預金通帳を風呂敷に包み背負って、私達についてきて、とても可愛そうでした。十六日の夕方に綏化すいか駅に着き、開拓民はそこで降ろされ、義勇軍もソ連の捕虜となる運命で、列車は北に走って行きました

地獄のような引き揚げ

九条ブログはらまちNo.189(2012年5月22日)

ソ連の検問所で「終戦」を知る

 昭和二十年八月十六日、ソ連の検問で初めて「終戦」とわかりました。武装解除となり、私達は武器はないが、腕時計や指輪、万年筆等々を取られました。何かを出さないと銃を突きつけられ、怖くて母は小銭入れのがま口を出して検問を通りました。

避難所にはソ連兵がやってきて若い女性を拉致し暴行を・・・

 綏化すいかの飛行場には格納庫が五、六棟ありました。そこに二万人位の私たち難民が入れられ、ソ連軍から「昼は男性何名を使役しえきに出せ。夜は十五歳以上の女性を出せ」と命令がきました。  区長さんと班長さんが名前を言うと、呼ばれた人は泣き泣き行きました。子供を置いていく人もいました。抵抗して怪我をした人、骨折した人、顔がはれて黒くなった人もいました。身も心もボロボロになって、二、三日で帰されます。格納庫には夜昼なしにソ連兵が来て、若い女性を人前で強姦、そして拉致して行きます。半狂乱になった人もいました。私は十一歳でしたし、母は妊娠八カ月だったので難を逃れることができました。

お金のない人は餓死するだけ

 闇市が出来ていて、物価は毎日値上がりしました。お金のない人、親にはぐれた子供、老人や病人は餓死しました。私達はまだお金があったので、高くても買って食べることができました。若い女性は髪を切って坊主になり顔には泥を塗り、狂ったふりをしていました。ソ連兵の暴行、強姦、略奪、拉致、伝染病に毎日怯えていました。また格納庫の中の人間関係もいろいろと辛かった。

さらに哈爾浜ハルピンから長春へ

 八月三十日頃まで綏化すいかにいて、また無蓋車むがいしゃに乗せられて移動が始じまった。列車が止まるたびに、満人の物売りが来ます。川から汲んできた水や、饅頭まんじゅう、ゆで卵、トウモロコシ等。三日も列車が動かないと、どんどん値上がりします。国破れても日本円と朝鮮銀行券は強くて助かりました。
 やがて何日目かに哈爾浜ハルビンに着きました。学校が難民所になっていましたが、軒下まで難民であふれ、私達のいる場所がないのです。又無蓋車むがいしゃに乗り南に向かって発車しました。
 九月の何日か、長春ちょうしゅん(新京・満州国の首都)に着き、日橋町の日本警察署官舎が私達の収容所となりました。畳一枚に二人の割合で、私達は畳二枚が生活の場となりました。

ある日、母は私を呼んで・・・

 九月のある日、母は私を石炭小屋に呼びました。私は子供心に悟りました。それは着物の袖の包んだ物でした。食べ物も着る物も無く、お金も残り少なく、どこのお母さんも行ったように、赤ちゃんを産むとすぐに背中でつぶして窒息させたのです。母は「男の子だけど死んで生まれたので」と言いました。墓標ぼひょうなき墓場の大きな穴には、毎日何十人も捨てられます。私はそこに捨てましたが、その時は悲しいとは思いませんでした。

胡蘆島コロトウからようやく帰国へ

 昼は照りつける太陽で体力を落とし、夕陽が沈むと急に寒くなります。ポン菓子を食べ、塩をなめ、満人から買った川の水を飲んで眠る。南に行くに従い、水分の多い食物が食べられるようになりおいしく感じた。
 何日かして、港らしい漁村に着き、四キロ位歩きました。中国軍港の胡蘆島コロトウでした。港には日本赤十字社と書いた貨物船が着岸していた。やっと日本に帰れると思った。乗船手続きが始まりました。持ち帰れるお金は一人百円までで、腕時計、金銀宝石、毛皮などはすべて没収されました。
 岸壁に三日も置かれ、母と睦子むつこに疲労が出ていました。乗船が始まりましたが、金持ちが優先で、係官に賄賂を渡した人が先に乗ります。私達はお金がないので最後でした。

引揚船では船底のひどい厩舎きゅうしゃ

 引揚船の地下一階二階は人であふれていました。私達は地下三階の船底でした。そこは馬の厩舎きゅうしゃで、遺体安置室でした。馬糞臭く、蒸し暑く、息苦しい、気持ちが悪くなる所でしたが、内地に帰れると思い、我慢しました。貧乏人は馬と同じ扱いか、遺体以下かもしれません。
 乗船してから毎晩母は、熱を出し寝汗をかくようになりました。芙美子ふみこ睦子むつこも一層栄養失調がひどくなり、元気がなくなりました。朝食に乾パンと水が出ましたが、食べ物は三、四回しか出なかったと思います。

船上演芸会も複雑な思いで観た

 船上演芸会が開かれ、乗組員の人達が「リンゴの唄」を歌ってくれました。一年間も死と恐怖と向き合ってきた私達に楽しいはずの演芸会でしたが実は複雑でした。引揚援護局乗組員の人達が二十人位いましたが、今までどこにいたのでしょう。早く出てきて病人の世話をしてほしかった。毎日何人も亡くなります。水葬で船は汽笛を鳴らして左回りに三回廻ります。もう私達は、人が死んでも涙は出なくなりました。

コレラのため舞鶴港で足止めに まるで牛馬のように扱われた

 昭和二十一年七月、舞鶴港に入港しますが、コレラが発生したので上陸できません。朝からDDTを体全体に何回もかけられ、睦子むつこは衰弱し食欲もなく、息をつくのもやっとのようでした。
 医学生や看護学生がコレラの便検査を行いました。引揚者全員を四つんばいにして、ガラスの棒を肛門に入れます。三回位あったと思いますが、まるで牛馬の扱いでした。
 数日後に上陸出来ましたが、上陸してからもDDTをかけられ、DDTの風呂に入れられ、ここでも家畜扱いでした。体力が落ちた睦子むつこは歩けないので私がおんぶしますが、体重も半減していました。

京都に数日いたが飯盒はんごうを盗まれた

 それから京都の、引揚者収容所になっていた大きな東本願寺に着いた。でも、そこで大切に使っていた飯盒はんごうと重箱を盗まれ、大変困ったことを覚えています。本堂の床下には子供の乞食が三、四十人住んでいました。京都には三日位居たと思います。

父はソ連の捕虜になり身体を壊す

 父忠志は昭和二十五年一月二十二日病院船でソ連から復員して来ました。五年間の捕虜で体はボロボロで虫の息でした。入隊する時に隠して持って行った三百円のうちの百円札一枚を小さくたたんでえりの中に縫い付けて来ました。その百円札は木村家の家宝です。
 その後、中村町に移り、県土木監督所の臨時道路工夫になりますが、捕虜時代の腸ガンがもとで翌二十六年九月十七日、「あと十年生きたかった」という言葉を残して、四十四歳で亡くなりました。

国策に踊らされた父と母

 国策に踊らされ、満州の富豪を夢見て満州に渡るが、日本政府、関東軍、長岡亀三郎団長に見捨てられ、夢破れた父母で、私の兄弟も犠牲になりました。十七歳の私にも辛い経験ばかりで、戦争を恨み人間不信にもなりました。
 でも実は、戦後のここからが、また苦しい生活の始まりだったのです。
 平成十九年十月(終)