私は大正十四年福島市生まれで、今年八十二歳です。父が警察官で小高町おだかまちに移り、小高おだか小学校を卒業。大阪のおじのお世話で関西工業学校に入学しました。そして、終戦前の当時最後となった兵隊検査で第二乙種合格となり、小高おだかに帰って待機していました。

二十歳で現役入隊 広島の陸軍病属で被爆

 昭和二十年、二十歳の一月初め、私は本隊が中国の下城子かじょうしの満州第二〇一六部隊に現役入隊しました。大阪から満州に渡りましたが、戦況悪化のためか、すぐ四月頃に日本に帰り、九州宮崎の佐土原さどわらというところの部隊に駐屯しました。そこで重砲連隊に配属されますが、どういうわけか鼻血が出て止まらず、病院を回され、四つ目の病院として広島の第二陸軍病院に転送され、そこで運命的な被爆を体験することになるのです。
 七月二十一日、広島に転送され、市内の北西、横川駅の近くの三滝分院(爆心地から北二.五キロメートル)に収容されました。木造平屋建てで十数棟の長い病棟が南北に並んでいました。広島は空襲もなくて、比較的静かな町でした。
 八月六日、原爆投下の日ですが午前五時ごろ空襲警報が出て、やがて警戒警報に変わり、それも解除になって朝食の時間になっていました。その日、私は前の晩から頭痛がひどく、作業に出ないで病棟に残っていました。同室には、支那事変しなじへんで片腕をなくしていた上等兵、それに老人兵など四人がいました。

時間が止まったかのようにその時のことをよく覚えている

 原爆炸裂の午前八時十五分のその時刻、私はベットで眠っていました。突然「空襲だ」という片腕の一等兵の叫び声で目を覚ましました。その一等兵は南側のベットに寝ていて、私は入隊したばかりで最下位の二等兵でしたから、北側の廊下側で寝ていました。その一等兵が廊下へ逃げる音がしました。とっさに私も廊下に出て逃げようと扉のレールを踏みつけました。その時のレールの冷たさが今でもこの足裏に残っているように、その瞬間のことをよく覚えています。時間が止まったかのようでした。片腕の一等兵のが廊下のむこうに走って行ったのも覚えています。

原爆炸裂の瞬間、爆風で廊下の壁に吹き飛ばされる

 でもすぐに、「軍服、靴、戦闘帽は必ず持って逃げなければ」とひょっと考え、取りに戻ろうと部屋に入ったか入らない一瞬のことでした。霧でも吹きつけられたような爆風で、私は廊下の壁に吹き飛ばされました。それに朝でしたから南の空に光るものなんかないはずなのに、南のほうに閃光せんこうを感じたような気もしました。でも、私のベットは壁のかげになっていて、直接に閃光せんこうは当たらなかったためか、私は幸い火傷はしていませんでした。同じ部屋の中で他に火傷をした人もいたのに。音は全く聞いていません。
 病棟は真っ直ぐ上から押しつぶされたようなかっこうで破壊されました。私は廊下のところで頭を手で押さえて立っていると、屋根のストレート瓦が雨のように落ちてきて、たちまち足のところにたまって足が動けなくなったほどで、その時の傷は今でも両足に残っています。それから、病棟のそばの防空壕に逃げ込みました。実に不気味なくらい静かだったように覚えています。
 そのうち衛生兵がやってきて、「警救集合所に集まれ」と言うので、行きました。その時私は初めて、自分が眼鏡を失くしていることに気づきました。その集合所には兵隊の患者だけでなく、付近の民間の人々もたくさん助けを求めて来ていました。気が動転していて、煙を見て飛行機だと叫んでいる人もいましたし、皆ひどい傷を負っていました。太陽が煙で黒い紫色だったことも鮮明に覚えています。原爆投下から二十分程のことだったと思います。

夕立のような「黒い雨」に茫然ぼうぜんとうたれるだけでした

 また、山の防空壕へ逃げろという命令が出て、私たちは山に向かいました。でも山は燃えていて、とても行ける状態ではなく、あちらこちらを一時間ぐらいさまよいました。その時、パラパラという音とともに雨が降ってきました。いわゆる「黒い雨」で夕立のようでした。あちこちでドラムカンが爆発する音がパンパンと聞こえました。
 私も他の人も白衣は血で真赤で、そこで初めて自分のケガのひどさに気がつきました。落下したスレート瓦で頭からもかなりの出血、両足も手の甲にも無数の傷ができていました。隣の兵士は耳がなくなっていました。私たちは「黒い雨」にうたれながら茫然ぼうぜんとしていました。ああいう時、一旦自分のケガなどに気がついてしまうともう動けなくなるものですね

軍人は優先的に薬品を使用 一般市民は治療をされないで

 いろいろあり病院にもどり、防空壕で終戦の日の朝までいました。私たちは一応兵隊で軍人ということで、優先的に薬品を使うことができましたが、逃げてきたり、助けを求めてきた民間の一般市民たちは本当に惨めでしたね。ろくな治療もしてもらえず、精も根も尽き果てて死んでいく人も多かった。赤ちゃんだけが生き残り、死んだお母さんの乳房をしゃぶっていたり、いろいろなひどい場面を目撃しています。真夏ですから薄物のシャツなど血に染まっていたり、死んだ人の皮膚は皆ぶどう色でした。次々に死んでいく人も実に多かった。そして、次々に衛生兵がその死体を焼いていくわけです。
 八月十五日の終戦の目、私たちがいた第二陸軍病院三滝分院から横川駅まで歩きました。その途中、電柱に「本日正午、重大放送あり」というはり紙を何度も見て、「何の放送なんだろう」と考えたりしました。横川駅から汽車に乗り、広島駅を通って芸備線の三、四つ目の山の中の駅に降ろされました。駅名は忘れました。山の中の小学校の講堂に転送、つまり避難したわけです。そこで初めて、青い謄写とうしゃインクの印刷物で日本の敗戦、終戦を知りました。

脱毛、下痢など原爆症に苦しむ

 その後、八月下旬に宮崎の佐土原さどわらにまた戻りましたが、脱毛が起こり、肝臓を悪くし、また体一杯にプツプツができて化膿して破れたり、下痢もひどかった。こうした原爆の後遺症は五十歳過ぎまで続き、本当に苦しみました。
 十月二十日にようやく武装解除となり、両親のいるこの小高町おだかまちに帰ることができました。その後、大阪のおじの建築事務所の手伝いをして、昭和二十五年、父の死亡で小高町おだかまちに戻り、二十九年五月から小高町おだかまち役場に就職したわけです。
 私は一度も広島には行っていません。いろいろ思い出しますから、行きたくありませんね。

昨年、初めて「被爆者手帳」を交付

 被爆者手帳もずっと申請しないで、交付してもらっていませんでした。手帳なんか持つと、かえって白血病になるような不安もあったからです。でも一昨年の平成十七年、元福大学長の星埜惇ほしのあつし先生からのご助言もあり、申請したところ、六十年後にして初めて「被爆者健康手帳」を交付していただきました。『私も証言する』の私の体験談と、広島の国立被爆者追悼平和祈念館の私の被爆者ビデオ収録が認定の大きな力になったようです。

「原爆しょうがない」発言は悲しい

 先日の久間防衛相の「原爆投下はしょうがない」発言は、被爆者の私としても大変悲しく思います。率先して核廃絶を進めていかなければならない立場にあるのに、もってのほかの許されない言葉です。最高責任者としての見識が足りませんね。