小学四年の時、日米が開戦
小学校が国民学校に改められたのは、私が双葉郡苅野小学校四年生のときであった。その年、昭和十六年の十一月、父の転勤で西白河郡矢吹国民学校へ転校した。そして一カ月後の十二月八日は日米開戦である。
汽車にゆられて矢吹の駅に着いたら、カーキ色の詰め襟を着た人が出迎えてくれた。案内されたところは、隣村の中畑にある福島県立矢吹修練農場であった。やがて父の服装も出迎えてくれた教官と同じくなって、毎朝、ゲートルを巻いて出勤するようになった。
朝は、五時に農場生(全員寄宿生)の起床ラッパで起こされた。まだ十四、五歳の子どもたちは、『起きろよ起きろ皆起きろ、起きないと場長さんにしかられる』と言いながらしぶしぶ起き上がるのだった。その後は、官舎の脇の道路を軍靴の音を響かせて駆け足行進をするのが日課であった。また父の話では、その頃、県から満州開拓団の団長(村長)として赴任しないかと打診されたらしい。もし、そんなことに応じていたら私は残留孤児になっていたかも知れなかった。
入院中、郡山空襲を目撃
五年生になった私は、クラスの代表として月曜日の朝礼の前には、校長室の神棚を拝まされた。でも、ようやく慣れてきたのに一年半も経たないで、父が霊山青年道場に転勤になり、伊達郡霊山第一国民学校に転校した。
ここで私は盲腸炎を患い、福島の病院で手術をしたが経過が良くなくて三ヵ月以上入院することになってしまった。その間、空襲警報がしきりと鳴った。辺りは灯火管制で暗闇の時間を過ごしていたが、ある時、南の空が赤々と明るく輝いていた。大人たちは「あれは郡山が燃えてるんだ」と話し、またある時は、北の空が明るいときがあり、「ああ、仙台が焼けている」と言っているのを聞いた。私は動けない体なのに、いつ福島が空襲されるのかと思って不安な日々を送っていた。
目を疑いたい当時の通信箋の言葉
そんなわけで、当時、霊山第一国民学校でどんな教育を受けたかのか、今はほとんど覚えてはいないが、当時の通信箋が残っているので紹介し、ご想像いただきたい。目を疑いたくなるような言葉が並んでいる。
次の年の五月、父に召集令状がきた。横須賀海兵団入団でしたが、入営したのは会津の山中で松の根っこを掘り、松根油を採るためであった。それで家族は福島市に移り、私は福島第二高女に入学した。
女学校で朝会のとき空襲に遭う
ある朝、二階の講堂で朝の会の最中、それはそれは物凄い爆音と爆風に見舞われた。窓ガラスは割れ、皆床に伏せて恐怖に戦いた。普通は警戒警報があってから空襲されると、思っていたのに、突然のことだった。後で聞いたことだが、渡利の田んぼに爆弾が落ちて田の草取りをしていた人が亡くなったということだった
原町の空襲も目撃し、終戦を迎える
こんなことがあって福島市は急に建物疎開を始めた。私らは裁判所近くに住んでいたので立ち退きを命じられ、父の郷里石神村(現・原町区石神)に戻って来たが、食物もなく、乏しいまだランプ生活の農家だった。
原町高等女学校に転入した夏、ここでも又、飛行場や原紡の爆撃を目にすることになった。玉
音放送があったのはその数日後であった。