小学六年の時 朝鮮で終戦を迎える

 六十二年前の昭和二十年八月十五日の終戦を、小学六年生だった私は、朝鮮の大邸テグの駅長官舎で迎えました。太陽がギラギラ照りつける暑い日だったことを記憶しています。
 家族は、大邸テグ駅駅長だった四十八歳の父、四十二歳の母、子どもは男三人、女四人の七人で兄は二歳で亡くなっていたので八人の大家族で、私は次女でした。

三陣に分かれて日本に引揚げ

 その終戦の日から慌ただしい雰囲気が家中を充たし、命じられるままに、幼くして亡くなった兄の遺影のある仏壇、七段飾りのおひな様、父の文学全集等を、庭や風呂場で燃やす手伝いをしました。
 十月初旬だったと思いますが、私たち家族は朝鮮から日本へ、引き揚げを始めました。父は日頃から朝鮮の人々に親切だったので、幸い襲撃されることもなかったそうです。
 第一陣は、女性はアメリカ人に暴行されるというデマがとび、女学校を卒業していた十八歳の姉と小学五年生の妹の二人が官舎を後にしました。第二陣は、母が生後十ケ月の妹を背負い持てるだけの荷物を手に持ち、その後に中学三年の兄と小六の私がリュックサックを背負ってつづき、朝鮮の方のあわれみの視線を感じながら官舎を後にしました。第三陣は、全ての後始末を終え、十二月に父が引き揚げて来ました。
 第二陣の私たちは、釜山プサンでの収容所生活を経て、関釜かんぷ連絡船にて住み慣れた朝鮮を後にしました。下関港が使用不能ということで、山口県の仙崎漁港に接岸され、荒れた海を小舟に分乗し、仙崎に着きました。その後、山口市のお寺に収容されました。子供だったこともあって、全てもの珍しく、あまり苦痛とも感じなかったと回想いたしております。ただ、母の疲れが極限に達していたため、兄が妹を抱っこしつづけて歩いたり、私も何かと世話をして過ごし、今考えますと、新型爆弾が落とされたという焼け野原の広島を歩いたらしいのですが、記憶としてあまり残っていないのが残念です。
 後日、母が十ヵ月の妹を京都駅に置いてこようかと思ったと話しておりましたが、その妹も今年六十三歳で孫二人に囲まれて生活しています。

富士山の姿にやっと安堵感を

 東海道線の汽車の中は、復員兵で通路まで一杯で、歩くところもない混雑でしたが、静岡あたりで車窓より見えた青空にそびえ立つ富士山の姿に、やっと日本に着いたという安堵の思いで胸一杯になった記憶は、生涯忘れえない想い出の一コマです。
 その後、上野駅夜8時発の無灯の貨車に乗り込み、月明かりの中にかすかに見える田畑や木々を眺めたりして、朝五時に原ノ町駅に降り立ちました。冷たい清々しい朝の空気を肌に感じ、今もその感触を忘れることができません。原町の今の錦町あたりにあった祖父の家の離れに、一家八人の仮住まいの生活が始まりました。

道路も水も電気もない開墾生活

 翌年二月、鹿島の父の実家の山を借り、開墾して家族全員で移り住みました。道路も電気もない掘立小屋での生活。朝鮮での生活とは大きく落差もあり、母のストレスは極限に達していて父の顔を見ると罵詈雑言ばりぞうごん、子供達にも同じで、楽しい家庭生活は皆無に近い状態になってしまいました。
 母を恨んだこともありましたが、今考えますと、まず父は生活の水を確保すべきだったと思うのです。家事をする母の苦しみを今あらためて思います。思春期であった私は、ただ黙々と親に従い、丘一つ越えた農家からの水運びや、薪取り、炊事と、母の顔色を見ながらの生活でした。私が枯れ木を一杯背負って帰ってくる時だけ母は笑顔で、「道子は薪取りがう まいね」とほめてくれるのです。

心にも大きな傷を負わせた戦争

 女学校へは通わせてもらいましたが、物事を斜めに見る暗い性格に傾いてしまい、なかなか友人の中へ入ることが出来ず、心に癒されない傷を負い、全てに無理する自分になり、心から自分を楽しむこともせず、笑いを失った青春。戦火には遭わなかった私ですが、悔いが多く残ってしまいました。このように人の心にも大きな傷を残してしまう戦争だけは避けなければと強く心に思います。
 また、、九十三歳で静かにこの世を去った母の苦しみを今は理解出来る歳になり、そのたくましさにも脱帽しております。

合の大切さを若い人に伝えたい

 私は四十年間、看護婦として生きてきましたが、今、この乱世の様な社会に生 きて、若い人達の人生観の甘さと、命を粗末にする報道を見聞きする度に、慄然りつぜんとした思いに駆られます。この事は、私達にも罪の一端があるのではないか?と思います。自分があまりにもひどい幸い思いをしたので、子供にだけはという思いで、甘く躾けてしまったのではないかと云うことです。人生を生きるのは、きびしいのです。最後まで生き抜く強さと、命の大切さを、老いた今、若い世代に伝えなければと思っております。

人の一生を踏みにじる戦争は絶対にいけない!

 大人のエゴで始まる戦争は、絶対NOです。弱者がいつも泣いている姿は、もう沢山です。それでなくとも、地球温暖化による異常気象におびやかされている今があります。せめて戦争にだけは巻き込まれない様にしなければなりません。六十二年間、平和を守ってくれた憲法九条を変えることは、その悪が美しい言葉で、国民をあざむくことだと思えてなりません。六十二年間一度も戦争をしなかったことを誇りに思い、世界中の青少年にアピールしてゆく「九条の会」の役割は、素晴らしいものであります。勉強させていただいたお陰で、理解す ることが出来まして感謝しています。今の私は七十四歳で、行動する力もありませんが、草の根が大きく成長し、人の一生を踏みにじる戦争の絶対阻止と、平和の実現を心より願っております。