私は原町国民学校の三年生《爆弾の破片》

 私は今、一個の小さな爆弾の破片を手に持ちながら、この文を書き始めている。破片は長さ二十センチ、巾三センチ足らずの小さなものだが、小さい割りにはずしりと重い。折れ口は菱形ひしがた、つまり諸刃の剣の刃身を折り取ったようで、両側面は刃物のように鋭い。多少錆びてはいるが、今でも出刃代わりに、魚の頭を叩き切ることはできるし、ペーパーナイフのように紙を切ることだって簡単にできる。
 この破片を拾うまでは、爆弾というのはそれが命中した所にあると思っていた。それが八月九日の空襲で、破片はおのなたやまさかりとなって飛び散り、人や物を傷つけ破壊し、その爆風も人や物を吹き飛ばし傷つけることを知らされた。昭和二十年八月九日、私は原町国民学校の三年生だった。

《八月九日原町空襲の時の私》

 この日の空襲は町中まで狙っているとすぐに分かった。私の家族は裏の竹薮のそばに作っておいた防空壕へ飛び込んだ。ダダダダダツと機銃きじゅうの音、カラカラッとやっきょうが竹にぶつかる音、ドドドーンと爆弾が爆発する音、グワワーン、バリバリバリーとグラマンが急上昇する時のエンジンの音、それ等の音が激しく錯綜する下で私は防空頭巾を被り、耳を親指で、残る四本の指で目を覆って身を固くしていた。

空襲の後、母の顔に安堵感《爆弾の破片を拾う》

 そのうち、ドドーンと壕が揺るいだと同時に私達は壕の床にべシャーンと圧し潰された。一瞬、私は何もわからなくなった。そして、ふと気が付くと心臓も動いていて体も動く。この時、私は生まれて初めて、「ああ俺は生きている」という実感を持ったのだった。家族はどうなったのだろうと、こわごわ目を覆っていた指をそうっと開けると、壕の暗闇の中に母の顔が見えた。その時の安堵感と嬉しさは、六十年以上たった今も忘れない。
 敵機が飛び去った後に、外に出てみて驚いた。壕のすぐそばに爆弾の爆発で掘られた大きな穴ができていて、そこにあった畑は無くなっていた。周りの柿の木、杉の木、竹などがいろんな高さでなたで切ったように切り取られていた。

生きていたのが奇跡に思えた

 そして、あちこちに爆弾の破片が落ちていた。壕の天井の空気孔から入って来たあの爆風の強さ、それにこの破壊力。もしこの爆弾がもう数メートル近くに落ちていたら、私の一家は皆死んでいただろう。そう思うと、生きていたのが奇蹟のように思えた。死ななかった、死ぬところだった、生きていて良かったという証に私は手頃な破片を一つ拾った。それが今も大切に持ち続けているこの破片なのである。
 因みに、その頃の私の家は原町女学校(現在の原町第一中学校)の近くにあった。戦後すぐ調べてみたら、学校の東や南に合計十二発の爆弾が落とされていたことがわかった。

原町紡績ぼうせき工場はまっ赤な炎をあげて燃え

 夕方、原町紡績ぼうせき工場がまっ黒な煙と、まっ赤な炎をあげて燃え上がった。炎は夕焼け空を更に赤くして猛烈に吹き上がった。その上昇気流に乗ってまっ黒な焼け布が幾万の烏となって赤い空を埋めつくして飛んでいた。「何もかも壊されていく、無くなっていく」。私は無性に淋しくなって涙ぐみながら、まっ赤な空と黒い布の烏の群れをいつまでも見ていた。

《避難そして終戦》

 その宵、まだ燃え続ける原町紡績ぼうせき工場を背に、石神の信田沢しだざわに避難した。農家の親類が無いので、本家の家族が避難している所に強引にもぐり込んだのだ。その夜はイグネの杉林の中に、畳を屋根形に合わせ、蚊に食われながら寝た。
 八月十日の再空襲はそこで見た。グラマンが急降下して爆弾を落とすのを見て、昨日はあの爆弾の下にいたんだな、今は安全な地にいる自分は幸せだなあと思った。
 次の日、暗いうちに(現在の鹿島区の)上真野へ移動した。ここも知り合いの又知り合いという家に強引に頼み込んで、壁ぎわを貸してもらい、片屋根をかけて地面にゴザを敷いて寝た。十五日の終戦はここで知った。

町が明るくなり終戦をしみじみ実感

 リヤカーを押しながら一気に十キロ以上を歩いて原町に入った時は夜になっていた。するとどうだろう。町が明るいのだ。あの灯火管制で光一筋見えなかったまっ暗なあの町通りが、家からこぼれ出る光で明るいのだ。私はその時、「ああ本当に戦争は終わったんだ。死ぬようなこわさはもうないんだ」としみじみと思い、嬉しさで遠路を歩いた疲れも忘れてしまったのだった。

生活の小さなことにこそ戦争の本質や悲惨さが《戦争の惨禍とは》

 私は長く小学校の教員をしてきたが、昭和五十年、復帰後間もない沖縄で開かれた全国教研の平和分科会に出たことがある。そこでは広島や長崎の原爆、沖縄などの戦争や、各地の空襲等の戦禍の悲惨さが語られ、平和の尊さが訴えられた。そういう重い話の中では、私のように爆弾がすぐそばに落ちたが無傷だったなどという話は、空気より軽く感じられる
 でも、と私は思うのだ。農民が馬を徴発ちょうはつされ、一家の柱の男が兵隊に取られ、若妻の夫が死に、疎開の子が飢え、仏具も鐘も徴発ちょうはつされ、着る物食べる物もなかったこと等々とも含めて考えなければ、戦争の惨禍の全体像は見えて来ないのだと。そして、加害者としての真実の話も加えなければならないと。

「子とも達を平和の語り部に」

 私はその教研で子ども達が家の人に聞いた様々な小さいけれどその家の人にとっては大きな戦争にまつわる話を中心にまとめたレポートを、かなりのプレッシャーを感じながら発表した。「子供たちを平和の語り部に」というのがレポートのタイトルだった。目を見張り、耳をそば立てるような内容など全然ないレポートだったがマスコミが取材に来た。

ごく普通の人の戦争の話が平和を守る道につながる

 日本の大部分の人は、特別な惨禍を受けた人ではないと私は思う。しかし、その普通と思われる人、あるいはその周辺にいる人の話をよく聞くと、必ずといってよい程、戦争との関わりを持っているものなのだ。私はその普通の人の話を綴っていくことと、大変だった人の話を結びつけていくことが平和を守る道につながると思っている。だから、会員の皆さんの話をいっぱい聞きたいと思うのである。